★2008.09.30(Mar)01:57
セルジー・ポントワーズ研修19日目
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| 愈々出発。朝8時すぎ、TF1のポケモンを途中で見棄てゝロビーにおりてゆくと、三々五々と学生たちが現れる。なかにナングもゐて駭いたが、車を運転して朝早く来てゐたさうな。やがて、ファニーやソカ、リュー、ラフ、ブラティッシュも姿を見せる。JCの姿がないのが残念だ。バスの時間は8:30。だが、来ない。流石はフランスである。パンジエ先生曰く「運転手が寝坊してるのでは」。 バス待ちの間には写真撮影大会。小生とヨースケの莫迦映像も。その間、ブラティッシュが、インド新聞に包まれたインド料理――「ロース」てふ名前だった。色黒の彼はインド系だったのである――を振る舞ってくれる。彼はほかにも、ストラップやらシールやら服やら、たくさんプレゼントを用意してきてくれてゐた。もちろん、最後までハイテンションである。なほ、勉強家の彼、日本語がなかなか達者なのだが、イントネーションは、「ワタシハ、スキデース」式の典型的外国人日本語。どうしてあゝなるのか、言語学的に興味深い。尤も、われわれのフランス語のプロソディも妙テケレンなものではあるのだが。なほ、リューやナングの日本語は、プロソディー的にはまったくOKである。 9時半近くに、漸くバス登場。一同乗り込み、一路空港を目指すが、車内まできたのに、ラフはゆけないからと下車。ロビーで知り合ったをっちゃん――朝のパンを買ってきたやうで、バゲットの袋を下げてゐた。なんでも、家の建て替へ工事の間、アパルト・シティに住んでるらしい――とならんで見送ってくれたのであった。 空港では、エリナはじめ数名が、7kg超過とかで、荷物の取り出しを余儀なくされる。軽いと思ってゐたナナも21kg――ちなみに小生は、小さいスーツケースにも拘らず19.2kg。ギリギリであった――。でも、サキは26kgでパスしたので、まことに時と人によるとしか云ひやうがない。チィも3kgぐらゐ減らしてくれてふことだったので、小生があれこれ引き出したら、19kgになってしまってゐたため、罪滅ぼしに紙袋をひとつ持ってやることにする。 身体・荷物検査を過ぎると、見降り客とはお別れである。列の境界線をはさんで、抱擁と落涙の光景が続く。ファニーもリューもナングも、そしてソカまで泣いてゐる。日本がわも、Petite アヤカをはじめ、たくさん泣いてゐる。そんななか、ナナは、オレ泣けないんですよねと、申し訳なさと居心地悪さの渾然一体となった風を呈してゐた。 当初からベルトもはづしてゐたせゐか、身体・荷物チェックは無事通過。エリナはベルトも上着もブーツも脱げと云はれ「わあ、裸にされるう」と思ったとか。通過すると、ヨースケが、「セルジー・バッグください」といふ。手荷物用に使ってるからダメだてふと、「オレの、乱暴に扱はれて破けたんです」といふ。取っ手の下の縫目が裂けたらしい。じつは、以前にも同症状の出た子がゐたので、これがセルジー・バッグの弱点のやうだ。けっきょく彼は、高校も大学も学科も先輩のチホにセルジー・バッグを譲ってもらって大喜びであった――ちなみにコトエのセルジー・バッグはケイコのものになってゐた――。 旅客機まではバスで移動。ところが、こゝのステップでミヤコが足首を挫いてしまった。寺迫先生に支へられた姿は、大層気の毒である。 フライトは10時間40分。道中、カナ、リヨ、ナナが、座席の映像が見られないと苦情を申し立て、30ユーロのエール・フランス金券を入手してゐた。小生の席のも、リブートをを勝手に繰り返すつかへないヤツだったのだが、ずっとPC見てたので、故障を申し立てるには到らず。そのかはり、フランス人乗務員に、このPCはオザカで売ってゐるのか? と話しかけられる。中古で買ったので、さう答へると、中古を売ってる店はあるのか? と訊く。然り、あなたも買ひ得るであらうと答へるが、OSは当然日本版なので、仏版に入れかへねばなるまいと云ふと、なるほどと些か残念さうな顔をした。 関空到着後は、また連絡しますてふことで解散。突如アジア都市文化の眞さんが現はれて驚いたが、誰だかの出迎へで来てゐたさうな。 学生のご親族も数名いらしてをり、挨拶をする。ミサの出迎へは弟くんだったさうで、某大学の仏文生らしかったが、ハナシはできず。研修の初めの方で高野文子のハナシをしてミサには驚かれたのだが、別れしなにやってきて「高野文子のハナシができる人がゐてよかったです」と云ひ、最後にひとこと「奥村さんのお茄子」と口にして去っていった。もちろん高野文子の漫画のタイトルである。ちなみにヨースケは彼女を「サブカルさん」と呼んでゐた。一見おとなしめのミサも、この研修旅行の間にだいぶハジケタやうである――ヨースケの報告によると、デスノのLの真似とかしてたらしい――。 チィのところは、出発時に引き続きのママ――大層お若く見える――と、今回はパパもご登場。ママに挨拶すると、「ほんま、ぼうっとしてるんで、ちょっとシメたってください」と云はれた。 ケイコはサークルの後輩連を呼びつけてゐて、その女王ぶり――暴君ぶり?――を遺憾なく発揮してゐた。Petite アヤカは加古川まで帰るといふ。訊くと、カコヒガ出身であり、なんと去年教へたカナコと同級生であった。Le monde est vraiment petit. 府大の学生たちには「また府大に来てください」と云はれるが、そんな機会はあるのかしらん? 小生は、上本までバス。ちなみにエリ、アーミも一緒である。上本では、エリのお兄ちゃん、アーミのお母さんが迎へにきてゐた。アーミのママは、「娘が久しぶり」と、娘と話したくて仕方ない様子。 さて、我が家に戻ると、旅支度のためにとっちらかした状態がもちろんそのまゝ残ってゐて、げんなりさせられるのであった。
(出国ゲート前の列。別れを惜しむ日仏両学生たち)
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★2008.09.28(Dim)06:37
セルジー・ポントワーズ研修18日目
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| 土曜なので、朝食は8時から。食堂でなかなか来ない連中を待ってゐたら、なんでも7時に出てった連中が何人もゐるといふ。なんで前夜のうちに云ふとかんのか!! 寺迫先生曰く「無茶苦茶やなあ」。ちなみに、よく仰有るセリフでもある。 そして、昨夜小生の部屋で検討したけっか、朝5時出でロンドンゆきのはずのアイとリヨが食堂にゐるので駭くと、帰りの便の席が売り切れで、けっきょく北駅までゆきながら断念したとの由。 その後、学生連は、おのおのヴェルサイユやらピカソ美術館やら、思ひ思ひの場所に散っていった。小生も土産を買ふためだけにパリに出る。数カ所巡って帰還。帰還後は、明朝の出立にそなへて部屋の掃除と荷造り。こちらで貰ったセルジー・バッグを機内持ち込み用にして、日本から持ってきて全然使はなかったリュックをトランクに詰め込む。その間、トモミとアイがメールチェックにやってくる。 夜は22時に最後のミーティング。パンジエ先生と、食堂の入り口で、Votre passeport et votre billet, s'il vous plaît. とやって、確認。かつて、チケットを手荷物ではなく、トランクの方に入れたせゐで、空港で悶着が起こった例をひき、パンジエ先生が、パスポートとチケットは必ず手荷物の方に入れるべしと、改めて注意喚起。食堂ほかの係で、毎朝あふロランと別れを惜しむ学生も多く、数名がツーショット写真を撮ってゐた。 部屋に戻ると、イクミとキョウがやってきてPC使ってゆきぬ。
(ヴィクトワール広場にあるハローキティ。異彩を放ってゐる)
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★2008.09.27(Sam)06:31
セルジー・ポントワーズ研修17日目
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| けふは、途中コリッシモを買ひにでた以外は引き籠もって仕事。寺迫先生は、能をめぐるコロックに参加のため、朝早くから出かけていったが、小生は御免蒙って不義理。夜の部の能の上演にもゆかずであった。 いっぱう、学生連はヴェルサイユやらユーロ・ディズニーやらへでかけ、例によってRERのトラブルで門限に間に合はぬのであった。さらには、アツシが戻ってこないので、パンジエ先生が大層気をもんでゐたが、0時前に帰還。 小生の部屋では、例によってPC利用者が入れ替はり立ち替はり、さきほどまで蟠ってゐたのであった。 ちなみに、現在1:03。France 2 では、Envoyé Spécial [アンヴォワイエ・スペスィヤル](特派員)てふドキュメンタリーの再放送が始まった。ひとつめのテーマは École, la violence entre les lignes。荒れる子供や、学習抛棄の子供などが報告される。なかで印象的だったのは、トルコから来た一家の子供のハナシ。子供が学校に来ないことがつづいたため、父親が呼ばれて説教することになったのだが――パパが朝6時に起きて働いてるのは誰のためだ? とか迫ってゐた――、時折トルコ語になったりする説教ののち、マイクを向けられた父親は、「わたしは、フランスで子供がどう大きくなるかを知らない」と答へる。子供はトルコ生まれだが、フランスで大きくなったのだ。このケースでは「親−子供」てふ対立軸のほかに、「トルコ−フランス」てふ軸も存在してゐたのである。
(France 2 の朝6:30のニュース。アナは Sophie LE SAINT。手話つき。字幕放送で、こんな風に出せるのだが、大変役に立つ。大抵の番組には字幕があるやうな)
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★2008.09.26(Ven)03:03
セルジー・ポントワーズ研修16日目
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| 午前中は、ヴァネッサの最終授業@リラ。なほ、アーミは病缺、アツシは財布とカルト・オランジュを「部屋の中で」なくしたとかで、探索のため遅刻――じつは、すぐに見つかり、9時には学校に到着したのだが、昨日に続き、部屋が変更になってゐて、1時間探し回ったとか――。 本日は比較級についての授業。ホワイト・ボードに高さの違ふお花の絵を描くヴァネッサ。よく見ると、花びらの数も違ふのだが、これも後で使ふことになる。つまり、形容詞の比較級と、数量詞の比較級である。結婚したばかりの彼女、明日には新婚旅行に旅立つとかで、そのハナシも。ちなみに、期間は3週間! 行き先は日本! 午後は研修の修了証――欧州標準基準枠による評価つき――授与式。Salle des thèses [サル・デ・テーズ](論文の部屋)てふ、博士号の口頭試問と授与をおこなふ部屋で、壇上にミュリエル、ヴァネッサ、フレデリック、寺迫先生、小生がならび、ひとりひとりに certificat [セルティフィカ] が手渡される。多くは A1 の en cours d'acquisition [アン・クール・ダキズィスィヨン] (勉強中=もう少し勉強すれば到達可能) で、若干名が A1 aquit [アー・アン・アキ](修了)であったが、エリのみ、A2 の「もう少し」であった。最後に、ミュリエルから、参加者一同、チュータ一同、教員一同に感謝の辞が述べられて終了――小生の苗字が憶えられない彼女、通常は Yoshi で済ませてゐるのだが、このときは往生――。 その後、カクテル。写真を撮りまくりのみんな。さらに、夜は20時から、駅前のディスコ(クラブ?)にて、お別れ会。ちなみに本日が誕生日のチホのお祝ひも。さりながら小生は、残念ながら仕事をこなすため缺席であった。
(修了証授与式前のアンケートに回答する一同)
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★2008.09.25(Jeu)10:43
セルジー・ポントワーズ研修15日目
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| 朝、教室へ向かってゐると、通勤途上の事務のオードレーに遭遇、開口一番、けふはいつもの教室をつかへないので、別の教室を用意するからと云はれる。新学期が完全始動したので、さいふとこともあるのならんと諒解。 そして、午前中は、1階から2階へと移動したミュリエル@リラの最終授業。今までの内容をふまへて自己評価させ、それをもとに、Q&Aの練習。さらに、それをふまへ、「この研修中に、わたしは〜を発見した、学んだ、理解した。そして、結論は〜』式の bilan [ビラン](一覧表、決算表、総括、総合評価、バランスシート、概括……)をつくり、それを報告。じつは、それが評価の対象になってゐた。 昼食は、寺迫先生、パンジエ先生とともに、駅前(上?)のモロッコ料理屋 Arabesque。tagine [タジーヌ] ―― tajine とも綴る――てふ煮込み料理が「今日の定食」だったので、みなそれを頼む。食べながら、これまでのことを少しふりかへり、来年にむけての準備が開始となる。 食後は大学へもどり、日本語担当の黒田先生もまぢへ、教員控室でミーティング。来年度へむけ、日程――ほゞ今年どほり――、ホームステイ――参加者一覧を6月中には確定して、セルジーの受け入れ希望学生らとのコンタクトが可能なやうにする――などにくはへ、教育面での共同研究の報告のハナシにも。2011年にコロックを企画、さらに来年にも。小生は、ミリュエルの授業中に撮影した映像データを、彼女とともにまとめ、document とすることに――来年の6月頭に大阪で、コメントを吹き込んで、編集をしませうてなハナシになったぞ――。黒田先生は、日英語コースの学生にとって、フランスでの仕事がなかなかないので、優秀な学生は、みんな海外に出てしまふてふハナシをなさったので、さういふ学生たちの「ポートフォリオ」を作成することに。 あってふ間に17時。ミュリエルは、友人のレジオン・ドヌール叙勲式に出席すべく、そそくさとパリへ。小生は、Fnac と Auchan で買ひモノをし――オーシャンでの金額が50ユーロにもなり、クレジットカードを使ふことになったが、端末機に差し込むと、ユーロとともに、日本の yen [イェン] での支払ひが可能であった。そこで、円を選択すると、レートが示され、OKかと訊かれる。プチ博打なのだ。ちなみに、このときのレートは1ユーロ160円――、アパルト・シティに戻って、夕食つくって食べてゐると、例によって、ヨースケとケイコが、大量のムール貝を購入したといふて、お裾分けにやってくる。ヨースケは、小生の部屋の冷蔵庫をあけて「イスラエルのグレープフルーツ・ジュース」を見つけ、ムールをこれにつけて食べませうと云ふので断固拒否したが、自分は浸して食べてみて、無茶苦茶不味いと勝手に悶絶してゐた。 ふたりの去ったのち、メールをしたいアイ、トモミ――ちなみに彼女のお父さんは、小生とタメ!――がやってくる。トモミが、カレシのメールの意味がわからんいふので見てみると、たしかにわかりにくいが、まあ、悪い意味ではないよと、大人らしい意見を述べておく。そこへヨースケが舞ひ戻ってきて、あれこれ雑談。その間に、既婚者でもあるアイ――みんなより年嵩でもある――が、洗ひ物をやってくれる。大人である。 さうかうするうち、22時になったので、所在確認。その直前に例によってメグミがメールをしにやってくる。その後、キョウコがイクミのPCを持ってやってきて、無線LAN化してある小生の部屋のネットに接続、メールをして帰っていった。ブラウニングでもネルフでもないが、世はなべてこともなし。
(タジーヌ。とんがり帽子の蓋で出てくる。このときのお肉は子羊)
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★2008.09.24(Mer)05:57
セルジー・ポントワーズ研修14日目
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| いやはや。もう2週間がすぎた。Le temps passe vite. 本日は、Conceil Général du Val d'Oise [コンセイユ・ジェネラル・デュ・ヴァル・ドワーズ]、すなはちヴァル・ドワーズ県議会との交流会。朝9:30にセルジー・プレフェクチュール駅の改札出たとこで待ち合はせのはずが、遅れるフランス人たち。やはりフランス時間かと思ひきや、ジー・セー曰く、引き続きのストで万事混乱してゐるといふ。いやはや。 歩いて15分ほどの議場へ向かふが、なぜか迷ったりして、ぎりぎりに到着。そのまゝ、県議会の議場である巨大な楕円の円卓に招かれ、県議会副議長 Alain LEIKINE [アラン・レキーヌ]氏の出迎へを受ける。研修生ほか、われわれ日仏の教員も円卓に着き、まづは、ヴァル・ドワーズ県の説明を拝聴する。こゝでは、通訳さんが逐次通訳をしてくださり、大変楽ちんなのであった。 その後、学生たちの質問コーナー。小生の横の横に坐わってゐたトモミが、副議長氏の説明のなかで、すでに自分の質問への回答がなされちゃったんですけど、どうしませうとか訊いてくる。が、ミュリエルは、全員に質問をたずね、既に同内容がなされた場合ても構はぬ態であった。副議長氏も、最初は、複数の質問の中からチョイスして答へる予定が、結局、全部に返答をなすったのであった。 研修生たちの質問は日本語でもOKなのだが、多くが用意したフランス語で問ふことに。教育、看護学、出生率、ニート、人口集中、公衆衛生、若年者雇用、移民、ライシテに到るまで諸々の質問があり、副議長氏は叮嚀に回答してくださったが、まあ、模範回答ではあった。とりわけ、ヴァル・ドワーズは失業率が平均より低いてふことと、移民問題にたいして inserer dans la société française [アンセレ・ダン・ラ・ソスィエテ・フランセーズ](フランス社会への組み込み/挿入)てふことばを使ってゐたことに注意がひかれた。ちなみに、レキーヌ氏は左派連合のご所属である。 昼食前に「上を向いて歩こう」を、Grande アヤカの指揮で披露ののち、立食の cocktail déjeunatoir [コクテール・デジュナトワール](昼食的カクテルパーティ)に。「ちょっとえゝ服」てふことで、ヒール履いたり、ワンピー着たりしてきた研修生たちはレストランでの昼食を期待してゐたので、大いにガッカリ。 こゝで、通訳のKさんと話す。もう30年もこの仕事をしてゐる彼は、フランス国籍を持ってゐて、役所関係や大企業の通訳をやってゐるさうな。でも、河内松原のご出身ださうで、そのうちアクセントが関西式になってきたり。スーパーで売ってる「スシ」は、郊外の大工場で作ってゐるのだとか教へていただく。そして、彼のサルコ批判は大変興味深いものであった。彼の知り合ひの政府高官もみんな嫌がってるらしい。さういへば、最近の支持率調査で、フィヨン首相は50%台だったが、サルコは30%台である。 カクテル終了後、午後の出発までのあひだ、みんなだらだら過ごす。小生はぐったりしてるフレデリックと会話。彼は現役で役者もやってをり、なんと現在も Théâtre du Nord-Ouest [テアトル・デュ・ノール・ウエスト](北西座)でモリエールのMonsieur de Pourceaugnac [ムッシュ・ド・プルソニャック] に出演してるといふ。昨夜のクリュニー訪問の後も、高熱を押して出演、台詞をとちりまくったさうな。 午後は、イル・ド・フランス地方の端っこ、セーヌ川のほとりに建つ La Roche Guyon [ラ・ロッシュ・ギュイヨン] の城館見学。10世紀に、ヴァンキングがセーヌ川を遡って侵攻してくるのにたいする砦として築かれたもので、バスを仕立てて、移動する。Kさんも同行し、ガイドからなにから片端から通訳してくださる。同行中にどんどん関西ノリになる彼、最後は、一緒に写真撮りたがる女子が続出するてふ人気ぶりであった。 小生、このロッシュ・ギヨンには 8 年前のマント・ラ・ジョリにゐた折りに訪れてゐる。前回は外から眺めただけであったが、まさか、こんなところまでまた来ることにならうとは、ユメにも思はざりけりである。 セルジーに戻り、セルジー・ル・オーとセルジー・プレフェクチュールの間にある Cergy-Saint-Christophe [セルジー・サン・クリストフ] にある、Axe-Majeur [アックス・マジュール](大都市軸)に立ち寄る。これはパリと同軸上にある彫刻作品で、その軸上に建つ扇形のアパルトマンは、『恋人の友だち』のブランシェの家として使はれたところでもある。ミサ――彼女は、バスのなかで、『妖怪人間ベム』のナレーションを完璧に再現してゐた――とふたり駆けつけ、写真を撮る。まあ、小生はロメール好きではないのだといふと、ミサも好きなのは両親の方だと云ふのであった。 アパルト・シティに戻って、晩飯を食べてゐると、ダブル・アヤカがやってきて、鍵の調子が相変はらず悪いので、ちゃんとアパルト・シティの人に云ふてくれろと云ふ。食事にもどると、こんどはトモミがやってきて、こちらのポストに投函した日本あての絵はがきが戻ってきたのだが、自分の文面に不備はないですよねと苦情を云ひにくる。たしかに彼女に落ち度はない。このところ郵便局がストをしてるせゐなのだらうか?? 夜の点呼では、相変はらず自分の部屋にゐるやつはすくなく、3名が所在確認できぬまゝ。あとで、寺迫先生が電話で確認することに。22時に回ると申し渡してあるんだから、こちらが訪ねたをりに誰ですかとか訊いたり、シャワー浴びてたり、どっかに消えてたりしないでくれりゃいゝのに。いやはや。
(ヴァル・ドワーズ県議会場。小生が坐わったのは、まさに副議長氏の席ではないか)
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★2008.09.23(Mar)05:41
セルジー・ポントワーズ研修13日目
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| 朝、MPFが合流。トモミとビズーしてゐた。 午前中はヴァネッサ@リラ。この週末のことを語らせ、ほかの研修生に、どんな内容だったかを答へさせる授業。けふから新学年の授業が開始なので、キャンパス内の学生がぐっと増えてゐる。しかし、チュータたちは、そのためにチュータ業が不可能になり、誰も来てない、と思ったら、Bratish [ブラティッシュ] てふ男子学生が這入ってきて、臨席させてくれといってきて、最後部に陣取った。ところが、彼、voudrais, aurais のモードを訊かれて答へられない(!)研修生のかはりに「半過去 imparfait [アンパルフェ]」と元気よく答へ、ヴァネッサと小生を驚かせた。もちろん、条件法 conditionnel [コンディスィヨネル] である。 午前中後半は、1階におりて、コクリコと合流、あすのヴァル・ドワーズ県議会との交流会の準備として、質問事項を読み上げる練習。あひかはらず、発音が綴りに引っ張られる――3人称複数形の -ent を発音する!!――みなさん。教へた側としては、そのたびに落胆である。終盤で、宿題になってたプレヴェールの詩の暗唱を全員でやる。これは次回につづくとなった。 午後は仕事しようと思ってたのだが、チュータ頭(がしら)のファニーがなにやら周章てゝゐるので、なにかと思ったら、コクリコを le Musée de Cluny に連れていく人がゐないといふ。しかも乗り換へる予定の RER B線がストで、運行がややこしいらしい。ヴァネッサはおやまあと云ひつつ、「ストもフランスの文化遺産(パトリモワーヌ)」とジョークにしてゐた。 急遽ジー・セーとブラテュッシュが割り当てられたが、現地で合流するはずのフレデリックが風邪で熱を出してをり、眩暈がするとか云ってゐるらしく、缺席なのだといふ。そこで、現地で誰がお金を払ふかとかが問題に。これは小生がゆくしか仕方あるまいといふことで、結局、クリュニー博物館にゆくこととなる。なにしろ、ジー・セーはカルト・オランジュだけ、ブラティッシュにいたっては電車賃すら持ってないてふのだ――結句、ブラティッシュは薩摩守を決め込むことに。そして、やはりカルト・オランジュを持ってゐたナングが同行することになった――。道中、ハイテンション系のブラティッシュが大騒ぎしながら導いてくれるので、ヨースケは、あれはフランスのヤマムー(アツシのこと)だと決めつけてゐた。 さて、パリはサン・ミシェルなる国立中世博物館に着いてみると、フレデリックが待ってゐるではないか。「大丈夫?」と訊くと「たくさん熱がある」と答へる。研修生たちは――二重の理由で――騒いだが、結局、日本語の解説マシンを借りて説明をまかせ、彼は、外で待機してゐることに。 見学後は、パリに残りたい組の、リヨ、カヨコ、ヨーコ、ミヤコ、チホを連れて、サン・タンドレ・デ・ザール通り rue Saint-André des Arts から、バルテュスの描いたコメルス・サン・タンドレ中庭 cour du Commerce Saint-André を散策。パリ最古のカフェのプロコップ――1689年創業――を教へると這入りたがるのであったが、値段の高さに断念。その後、チュイルリーでモンブランを喰ひたがる彼女らをオデオン→シャトレ→チュイルリーとメトロで誘導、そこで別れ、小生は、資料用の写真を撮りに、サン・トノレからシャン・ゼリゼへ。日本の方の蝟集せるルイ・ヴィトン本店を撮影し、帰途につくのであった。
(シャン・ゼリゼ101番地のルイ・ヴィトン――ルイ・ヴュイトンが正確な発音――本店)
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★2008.09.22(Lun)12:54
セルジー・ポントワーズ研修12日目
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| 日曜だけのホストは10〜11時に迎へにくるてふ「フランス時間」になってたのだが、まぢめなリューは、日本的に10時にミサとアーミを迎へにきた。外部からはあけられないので、門とドアをあけてやる。そのをりに話してわかったのだが、彼女、1年前から Mantes-la-jolie [マント・ラ・ジョリ] に住んでるらしい。マントは、8年前に1ト月すんだところなのだ。 その後、エリ、ナナの迎へも11時までには参上。小生は、飛行機が飛ばなくなって、来仏の一日のびたパンジエ先生を迎へるために、アパルト・シティに残るてふ寺迫先生をおいて、パリへ。文学部OGのHさんに、22日にベルシーでワインがふるまはれるのでおいでなさいと云はれてゐたからである。ただ、彼女からの情報が「ベルシーてふところでお昼から」てふものだけ。まあ、おそらくワイン倉を改装したショッピング・ゾーンのベルシー・ヴィラージュであるなにかではと思ってゆくと、なんにもない。まあ、しゃあないかと東の方へあるいてゆくと、なにやらワイン片手の人々が塀の間にみえた。Les Pavillions de Bercy [レ・パヴィヨン・ド・ベルシー] てふ建物であり、なかに Le Musée des Arts Forains [ル・ミュゼ・デ・ザール・フォラン]、すなはち「縁日博物館」なんかが這入ってゐる、これもワイン倉を改装したものであった。こんなところで?とは思ったが、博物館が見てみたかったので、6 ユーロ払って入場。無闇に広くかつ怪しげな館内を見たのち、広場にでると、ありました、日仏修好150周年の看板とともに、サムライの恰好をした日本人たちがワインをふるまってゐる姿が。 なんでも、美術系企画会社の企画で、日本を紹介すべく、日本のアーチストたちの絵画や書をワイン・ラヴェルにして、そのワインをふるまってゐるのださうで。小生もワインをもらってちびちびやってゐると、Hさん登場。無事の再会とはなった。 さて、研修中最後の日曜とあって、ジョルジュ・ブラッサンス公園内の Brancion [ブランスィヨン] の古書市へゆき、革装本や絵本をあさる。かつてはメトロ13番線のポルト・ド・ヴァンヴから歩いたものだが、トラム3番線のブランシヨンてふ最寄り駅ができて、便利になった。 帰りは、ポルト・ド・ヴァンヴにもどり、ケバブを食べ、58番のバスでシャトレまで。このバス、モンパルナス駅、リュクサンブール公園、オデオン座、ランボーとヴェルレーヌのビュシー通り、ポン・ヌフを通るてふお勧めのバスでもある。 22時の点呼では、すでに寝てる学生多数。みなお疲れモードであった。
(一昨年開業のトラム3番線。大学都市前なんかも通る。頗る低床だ)
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★2008.09.21(Dim)12:23
セルジー・ポントワーズ研修11日目
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朝からコトエとバスティーユにゆき、ルドリュー・ロラン並木道 avenue Ledru Rollin の Baby の店舗をながめ、アリーグル広場 place d'Aligre なる Beauvau [ボーヴォー] 市場をひやかす。こゝは建物内の常設市場と、広場上の仮設市場からなるマルシェで、古着や古道具のほか、安服、民藝品なぞも出てゐる。そして、この市を中心に、南北の通りがマルシェと化してゐて、生鮮品や日用品を売ってゐるのであった。 それから、パッサージュのひとつである Galerie Vivienne [ギャルリー・ヴィヴィエンヌ] のそばのマイユ通り rue du Mail の Vivienne ショーケースの住所に行ったら、存在しなかった! 同番地のアパルトマンに4軒のブティックが這入ってゐて、 1軒のみシャッターがおりてゐたのだが、たんに空き家だてふだけの気がする。ヴィヴィアンはいづこへ? ちなみに、この日はテクノ・パレードの日で、オペラからバスティーユ――つまり、旧オペラ座から新オペラ座まで――、テクノをがんがん鳴らしながら踊り手をのせたトラックの山車が運行するてふ光景が見られた。
公式サイト http://www.technoparade.fr/
その後、百貨店を覗き、セルジー・ル・オー駅に帰還、カルト・オランジュ廃止にともなひ、移行の推奨されてゐる NAVIGO Découverte [ナヴィゴ・デクーヴェルト] を購入。イコカやピタパのごときタッチ式のカードであるが、カード代に5ユーロが必要となる。そのほかのやりかたは、カルト・オランジュとおなじで、じぶんで顔写真を貼ってサインをするだけ。もちろんカード本体さへあれば使へるのだが、これはコントロール(検札)用である。 アパルト・シティに戻ると、今晩を研修生といっしょに過ごしてくれるひとびとが集まってをり、寺迫先生が誰がどこへの確認をしてゐた。順調かと思ひきや、研修生受け入れの希望を出してたのに、研修生の割り当てにはづれたひとも来てゐたたりして、いささか混乱。ところが、迎へに来てないひともゐて、結局、その分の研修生を引き取ってもらふことにして、その場は収まったのであった。 が、20時すぎに、ドアをどかどか叩く音がして「だれかゐたはりませんか」の声。出てみると、若い娘をつれたをっちゃんが、「日本人を迎へに来ましたんや」と云ふ。なんでもこゝを探して、2時間彷徨ってたらしい。おやおやと思ひつゝ、寺迫先生のとこに連れてゆき、事情を聞くと、大学事務から渡されてた住所を、道行くひとに聞いたら、ひとつ手前の駅で降りろと教へたらしく、それで迷ったとの由。事情は納得して帰ってもらったが、寺迫先生と、嘘教へたヤツもヤツだが、まづ地図みてえや、と嘆息したのであった。
(Baby とフランス人ロリータちゃん) (アリーグル広場。背後の時計塔付きの建物は常設市場) (必ずゐる、バス停の屋根に乗るヤツ。踊ると屋根が撓んで、大層危険な感じ) (NAVIGO。下の2枚を、上の透明ケースに入れて使ふ)
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★2008.09.20(Sam)07:52
セルジー・ポントワーズ研修10日目
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| 研修もはや半分経過。午前中は、例によってミュリエルのポートフォリオ作成授業@リラ組。週末にフランス人家庭にゆく体験をすることになってゐるので、そのための準備と、火曜にヴァル・ドワーズ県議会議員にあふための準備。そして、自己評価 auto-évaluation のシートを配布。四技能について、具体的な評価ポイントが記されてをり、それについて4段階で評価する――○のなかに×をつける。こちらでは、×すなはち croix はたんなるチェックの印であるが、日本の「バツ」はネガティヴな含意があるのだと、チュータのキンディに教へそびれた――ことになってゐる。たとへば、「聞く」の第1段階は「教師の指示がわかる」であり、それが25%程度なら×ひとつてな具合である。 午後、リラはカモンド美術館へ。付き添ひはソカだが、彼は行き方を知らなかったので、地図を見て教へてあげる。コクリコは、ファニーの授業。リュー、JC、キンディ、ナングほかのチュータ団もそれにしたがふ。小生は愈々ケツに火がついた状態の論文を書くべく、アパルト・シティに帰還。途中で寺迫先生が、娘さんふたりと話しながら歩いてゐるのとすれちがふが、呼び止められ、「彼女たち、エッフェル塔はどこだって、こゝで訊くんだよ」と云はれる。思はず笑ひながら「それは遠い」てふと、寺迫先生「ほら、彼も笑ふだろ」と云ふ。なんでも、アルゼンチンから来た子らで、仏語はうまいのだが、パリを知らないらしい。なんで、RERの終点であるこゝ Cergy-Le-Haut [セルジー・ル・オー] まで来て、エッフェル塔を探してゐるのであらうか? 謎である。 夜は、22:15からミーティング。じつは、Carte Orange [カルト・オランジュ] が無くなるとは聞いてゐたが、寺迫先生がセルジー・ル・オー駅で確認したら、もう明日までしか販売しないとの由。しかも、売る駅は限られてゐるらしい。しかし、けふ、来週分を買へた――メトロのオペラ駅で買へたさうな――のは4名のみで、残りの26名全員も、カルト・オランジュの継続を希望してゐることが判明。結句、寺迫先生が、残りの購入を求めて彷徨ふことになるのであった。 その後、ヨースケとコトエがワインをもって部屋に来る。風邪で早退のヨースケ曰く、セルジー・プレフェクチュールの駅で、「????」と話しかけられたので「わからん」てふジェスチャーをすると、こんどは日本語で「シャトレはどこですか?」と訊かれたと報告してくれる。つまり、昼間の女の子たちのごとく、セルジーにゐるのに、パリを知らないひとがゐるてふことである。ロワシー空港からバスによりダイレクトにセルジー・ル・オーに送り込まれた我らが研修生たちとほとんど同じ状況ではあるが、ふつうの旅行者や企業人にもそんなのがゐるのかしらん……?
(訪れた側と向かへる側に分かれてロール・プレイをしてゐるところ。チュータたちも参加)
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★2008.09.19(Ven)05:48
セルジー・ポントワーズ研修9日目
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| 朝、食堂は7時にオープンするので、われわれ引率者は早くから参上するのだが、学生さんたちはゆるゆるとご登場になる。そして、今日は、昨日の疲労のせゐか、いつにもまして出足が遅かった。 午前中の前半はヴァネッサ@リラ組。昨日の日記を書かせ、チュータのリュー、ソカ、JC [ジー・セー] らとともに添削し、完成したものを朗読させる授業。モン・サン組のエリやロワール城巡り組のアイのほか、オルセー巡り組もゐて、日記の内容はヴァラエティに富んだものであった。 後半は、007教室に降りて、ミュリエルの授業@雛罌粟。じつは、この組の授業を見るのは初めてである。来週の23日に行なはれることになってゐるヴァル・ドワーズ県議会との交流会にむけての準備と称して、新県議会議長の名前や新議員団の所属などをチェック。4つのグループに分け、質問を考へさせてゐた。 午後は、コクリコと共に、カルナヴァレ美術館に。マレ地区にあるパリの歴史を提示する美術館はフレデリックの担当だが、セルジーからの引率にあたったのは、チュータのナング――ちなみに、彼女、2歳の時にフランスに来た laotienne で、フルネームは、憶え切れぬほど長いものであった。そして、かつて日本の秋葉原で購入したてふ電子辞書は、カシオ EX-Word 。『小学館ロべール』の這入ってゐる高級機だ――で、RERでシャトレ=レ・アールまでゆき、メトロ1番線に乗り換へ、サン・ポールで降りて、徒歩3分。美術館に着いた時点で、おもむろにフレデリックが登場、中庭のルイ14世像のまへで、75分間にわたる講義がはじまるのであった――お昼を食べてないナングは、空腹をうったへる気の毒さ。でも、なんでお昼たべなかったの? と訊くと、だって学食はおいしくないもん、とじつにストレートな返答――。 その後、這入ったところのシテ島の模型のまへで、ふたたび長い講義。フレデリックは、カルナヴァレのコンセプトに忠実に、歴史にかんする質問を中心に講義をつづけるので、どうしても延びるのであった。その間、ヨースケのブーイング激しく、「オレ、フレデリックに時間大丈夫かって云ってやりますから、文章教へてください」と云ふにいたるものの、実際に云ふにはいたらずであった。 カルナヴァレの後、ルイ13世によって作られ、ルイ13世像の立つヴォージュ広場 Place de Vosges に出て解散。みな、三々五々、散っていったのであったが、小生は、2000年に住んでゐたサン・ルイ島のアパルトマンに連れてったろかてふのに賛同の意を示したサキ、ヨーコ、チホ、ミヤコ、リヨ、カヨコ、マリナを連れて、サン・ポールにもどる。そこから、パッサージュ・ド・サン・ポールをとほり、昼間だけあいてるサン・ポール教会の横の抜け道をとほって、シャルルマーニュ高校の校庭横なる、フィリップ2世尊厳王の築いた12世のパリ市城壁を説明し、骨董品街のサン・ポール村から、15世紀末建造のサンス館 Hôtel de Sens を経て、サン・ルイ・アン・リール通り rue de Saint-Louis en l'Île へ。例の如く山のやうな観光客――日本の人率たかし――のなかを西に向かふが、かつての我が家の一歩手前で、女子たちはピローヌてふ雑貨屋さんトラップに捕獲される。お店のひとに訊くと、サン・ルイには数年前に開店したが、20年前に創設された会社で、東京他の海外にもにも店があるといふ。あとでリヨが、名古屋にもありますよ、といふてたが、輸入してる店があるやうだ。さらに、パリ市内にも数店あるらしい。
ピローヌのサイト http://www.pylones.com/
輸入店の説明 http://www.petitcoquin.net/petit/company/pylones.html
島をぬけ、CMや雑誌でよくロケに使はれるバール通り rude des Barres(横棒通りの意)をとほって、4区の区役所前からポンピドゥー・センターをかすって、シャトレ・レアールから RER に乗る。が、オーベールで、トラブルのため運行停止。下車させられる。ところへ、Grande アヤカから電話があり、シャルル・ド・ゴール・エトワールで RER に乗れなくなった彼女とチィとナングは、ナングに連れられて RER C線――終点は Pontoise ――に向かってゐるので、帰還が遅れるかもしれないとの由。こっちも足止めやで、と返事する。そこへデファンスゆきが来たので、それによってデファンスまで進み、そこでふたたび足止め。途中のシャルル・ド・ゴール・エトワールには止まらず、車窓から覗くと、警官によって立ち入り禁止にされてゐたが、なにがあったのかしらん? 結局、30分ほどでセルジー方面行きが復活、それに乗って戻ったのであった。なほ、ナングらはポントワーズからバスで大学に到り、A線が復活してたので、それで帰還。RER が動いてなかったら、ナングのパパが送ってくれるてなハナシにまでなってたさうで。しかし、待ってたわれわれよりさらに30分おくれの帰還ではあった。
(サン・ポール教会横の抜け道。大層ほそい)
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★2008.09.18(Jeu)04:20
セルジー・ポントワーズ研修8日目
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| 朝5時に起きて、モン・サン=ミシェル隊を送り出す。その後、7時を過ぎてもSOSが這入らないところから、無事TGVに乗ったのだらうと安堵。ちなみに、彼女らは、割引が予定通りでなかった以外は、万事順調にすごし、19時半には帰着してゐたのだが、心配せる小生には一報もなく、22時の点呼の折りに苦情を云ふことになるのであった。 本日は小学生のごとく授業がなく、大多数がオルセーにゆくてふ状態になってゐるなか、9時に寺迫先生とともに大学に赴き、CILFACの事務のオードレーおよびファニー、リュー、キンジーらと、この週末に研修生を受け入れてくれる家庭の調整。ファニーは、誰と誰がよく一緒にゐるかを結構よく観察してゐて感心する。 ステイを希望しない連中――他にやりたいことがあったり、別の知り合ひと会ひたかったり――を除き、25名のステイ先を決定する。 午後は、アパルト・シティにもどり、漸く仕事をこなす。帰途、こちらで購入した雑誌類を送るべく、郵便局で仏版ゆうパックともいふべきコリッシモを購入。これは郵送料込みの箱で、海外便Lサイズは34ユーロであったが、あとでパッキングしてみると、あと5ユーロ出してXLにすればよかったと後悔することになった。 夜は、例の如く、チィ、メグミ、コトエのPC借用常連――メールやらmixiやらをやるのだ――にくはへ、毎日報告に訪れるヨースケ&ケーコのほか、マイ、キョーコ、イクミらが入れ替はり立ち替はり現れ、あってふ間に22時の点呼の時間に。今日は、寺迫先生とともに回れたのであった。 なほ、昨日から歩きすぎで足を痛めてゐたサオリの具合が思はしくなく、マイが病状をつたへてくれてゐたが、Petite アヤカ――今回の研修には「アヤカ」がふたりゐるので、古代ローマの政治家のごとくかう呼ばれてゐる――が湿布をもって颯爽と登場、なんでも高校のときにラグビー部のジャーマネとして資格を取ったとかで、テキパキと診断、指示を与へるさまは、プロのそれであり、寺迫先生と小生は、なすすべなく、手を拱いて見守るばかりのでくの坊状態であった。
(19時のアパルト・シティからの眺め。まだまだ陽が長く、夕方とも云ひがたし)
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★2008.09.17(Mer)08:11
セルジー・ポントワーズ研修7日目
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| 午前中はミュリエルの授業@リラ組。ポートフォリオづくりの2回目。チュータには、ファニーとリュディヴィーヌ Ludivine ――本人曰く「リューと呼んでね」。新2回生だが、もう6年も日本語を習ってるさうで、かなりうまい――の、ロワシー到着以来の2人にくはへ、アジア系女子のナング Nang が参加。 前回憶えてこいと云はれてゐた歌は、今回、身振りつきになり、全員で歌ふことに。このクラスは結構盛り上がり、ミュリエルも大満足であった。しかし、あらたに、研修中の日記をフランス語で書くことが宿題に追加される。 午後は、またしてもココリコ組とともに、日英コースの新入生との交流会に参加。開始は14時からてふことで、しばし、来週に予定されてゐるヴァル・ドワーズ県議会のレセプションにおいて披露する予定の「日本の歌」の練習をすることに。女子団長のエリナの差配のもと、「上を向いて歩こう」――選曲は、全員の投票による――を練習。ナリで練習をしてゐると、寺迫先生が突如演出家となって、注文を出すのであった。 その後、セルジー・ポントワーズ大学の日本学の唯一の専任教員である黒田先生――元はメルロ・ポンティの専門家でいらした由――と、非常勤講師の川上先生らに率ゐられた新日英コース生50名がぞろぞろと入場。黒田先生の教務ガイダンスののち、交流会となるも、日本語はこれから学ぶてふ学生も多いせゐか、フランス人にしては可愛らしく、出てきて交流する気配が少ない。しかたないので、こちらの学生を吶喊させることに。このときのことを考へ、昨日オーシャンにて購入の Anime Land はヨースケに持たせたが、大層役に立ったらしく、さもありなんてふ感じ。ほかの連中も、果敢にコミュニケーションに挑んでゐた。 終了後は、日本の地理クイズ。小学生向け地理の塾講をしてゐたミヤコが、わかるはずなのに、ト、地団駄を踏む。その後、16時まで、『となりのトトロ』のDVDを鑑賞。ところどころで黒田先生の、日本にかんするコメントがはさまれる。 終了後は、チホの頼みにより、フナックのプレイガイドでユーロ・ディズニーのチケットを買ひに同行するも、予定の割引は5日前までに予約せねばならんてふことで断念。 夜は、翌日の Mont Saint-Michel [モン・サン・ミシェル] 行き希望組8名のためにレクチャー。RERでシャルル・ド・ゴール=エトワールまでゆき、メトロ6番線でモンパルナス=ビヤンブニュ、そこからTGVでレンヌ Renne 、バスでモン・サンてふ行程であり、『地球の歩き方』にも出てゐるものだが、7時発のTGVに乗るためには、5:11のRERに乗らねばならんことなどを調査して伝へる。隊長には4回生のエリを任命、本人ももてる限りの仏語力を駆使すると覚悟を決めたのであった。
(「どうして日本語をはじめるの?」と訊いてゐるヨーコ。もちろんフランス語) | | |
★2008.09.16(Mar)
セルジー・ポントワーズ研修6日目
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午前中はリラ組の授業。ヴァネッサの2回目。週末どこにいったか、てふ質問から、前置詞と冠詞の復習をやる。都合の良いことに、
à Paris au Château de Versaille à la Maison de Chocorat à l'Opéra
が出たので、昨日蚤の市いった連中のひとりであるナオトに声をかけると、案の定、
aux Puces
が登場。その後は、複合過去、代名動詞。忘れられてるねえ、代名動詞。 午後は、雛罌粟組とともに、シャルル・ド・ゴール空港の中にある、Val d'Oise 県の宣伝施設 Datagora にゆく。ケイコ風にいふと「物産見本市的な何か」を想像してゐたのだが、一室に籠って、動画を見たのち解説を聞くてふ大変静的なものであった。府大の植物バイオサイエンス――府大生は「植バイ」と略称する――の学生であるケイコは、「理系にはちっともオモロなかった」と怒ってゐたし、寺迫先生も大層ガッカリ。ミュリエルに感想を問はれた小生も正直に Presque nul と返答。彼女も、そこまでひどくないが、との意見ではあった。 チャーターのバスで往復。大学着ののちは、オーシャンでお買ひもの。1階の雑誌コーナーで、寡聞にして知らなかった Gazelle てふ雑誌を発見。ギャル雑誌の態なのだが、Le Magazine de la femme maghrébine(マグレブ女性マガジン)と書かれてゐるではないか。 スターのコーナーはマグレブ系スターの動向だし、モードの記事は「伝統服の着こなし」「ヒジャブ hijab のモード」。ほかには「ラマダンの間に働くこと」「マグレブ系なのに、さうは見えない」。もちろん、化粧品や星占ひのコーナーもある。隔月刊のやうだ。2.5ユーロ。編集室はマルセイユにあるやうだ。
公式サイト↓ http://www.gazellemag.com/
オーシャンでは、エリナと Petite アヤカが自動レジを使ふてふので、ビデオに撮ってゐたら、セキュリティの人にダメを食らってしまった。その後、エリナが地図ヲタだてふことが判明。同じく地図ヲタの小生、オーシャンで買った、メトロとバスと自転車路線入りの地図と、建物ガイドのついた地図を見せてやると、案に違はず羨ましがってくれたのであった。 部屋に戻ってきて、ラルドンと豚耳を炒め、カット野菜に盛って食べる。ついでに酒を呑んだら、いつの間にか沈没。昨晩は一人でやった22時の在室確認を、寺迫先生ひとりにやらせることになってしまった。Excusez-moi, Monsieur ! 23時すぎにチィとメグミがPCを貸してくれとやってきたので起こされたのだが、机の上に、誰かが部屋に侵入して差し入れてくれたサラダとスープがおかれてゐた。いったい誰が……?
(これがダタゴラのすべてだ! いや、まぢで) (袋から出すと立派な豚耳。1.76ユーロ)
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★2008.09.15(Lun)03:51
セルジー・ポントワーズ研修5日目
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| ヨースケが Saint-Ouen [サン・トゥーアン] の蚤の市に連れてってほしいてふので、行きたい人を募ったところ、30名中19名が希望。てふわけで、けふは蚤の市に引率。 日本では「クリニャンクールの蚤の市」として知られるパリ市北側の蚤の市は、じつは大部分が環状高速道路 périphérique [ペリフェリック]―― périph と略称される――を越えたサン・トゥーアン市に展開し、「サン・トゥーアンの市」と呼ばれてゐる。メトロ4番線の終点 Porte de Clignancour [ポルト・ド・クリニャンクール] から環状道路をくぐり、とりあへず環状道路沿ひの道を通り抜け、諸注意ののち、90分間の自由行動とする。 こゝで、5人がヴェルサイユへ、2名がパリ・マンガに行くからと離脱。残りを連れ、パリ市東側の Montreuil [モントルイユ] の蚤の市へ。こゝは観光地化の激しいサン・トゥーアンの市とは異なり、日常品の多く売られる、まさに marché aux puces [マルシェ・オ・ピュス] ――すなはち直英訳が flea marcket ――であり、人出も多い。たゞ、お目当ての古着の店は減り、安新服の店が増えたやうな気がする。フランスも、日本の如く、新品の安売りにより、リサイクル精神が崩壊してゆくのだらうか。こゝでも90分の自由行動。 集合時間は16時。案の定、みんなお草臥れゆゑ、当初予定のビアンションの古書市はやめにして、帰途につく。折角なので、Porte de Montreuil から PC2 のバスで Porte de Montempoivre [ポルト・ド・モンタンポワーヴル] までゆき、そこから 29番のバスに乗ってオーベールまでゆくことにする。この29番は、Daumesnil [ドメニル]、バスティーユ、マレ地区、Étienne Marcel [エティエンヌ・マルセル]、オペラ・ガルニエなどを通るプチ観光バスでもある。 さて、セルジー・プレフェクチュールにてオーシャンに寄らうと下車したら、日曜は休業で、途方に暮れた小生と6名は、駅前のクレープ屋に這入って飢ゑをしのぐのであった――じつは、オーシャン奥の飯屋や、セルジー・ル・オーのイタ飯屋も開いてゐたのであったが……――。
(サン・トゥーアンの市のひとつ、Paul Bert [ポール・ベール] の市のカフェで、「道に倒れて誰かの名を、呼び続けたことがありますか」状態の子供)
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★2008.09.14(Dim)13:43
セルジー・ポントワーズ研修4日目
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| 最初のウイークエンド。土曜の食堂は、平日より1時間遅い8時から10時まで開室。朝食時はミーティング時間でもあるので、みんな8時に集まると思ってたら、授業のない日は、ミーティングもお休みと考へてた学生がたくさんゐて起きてこず、ショックを受けた態の府大の寺迫先生であった。 みんなの行動計画を聞いて解散後、11時にファニーたちチュータ連がきて、パリに引率。有名どころを案内してくれるてふことで、途中までついてゆくが、RER [エール・ウー・エール] A 線の Auber [オーベール] で降りて、百貨店のプランタンの前まで行ったところで、小生は、仏文の卒業生で、仕事を辞めた後、パリに1年半留学してたマキコに会ひにゆくため離脱。ローマ法王ベネディクト16世――仏語では Benoit XVI [ブノワ・セーズ]――来パリの混雑を避けるべく、バスティーユで待ちあはせたが、オーベールからメトロ8番線に乗るのに、迷宮のごとき地下道をうろうろして、待ちあはせには遅刻。 この辺しらねーんだよと云ひあひつゝ、ラップ通り rue de Lappe の古風なカフェ Les Sans Culottes [レ・サン・キュロット] で定食を食べる。店の人にこのお店は古いんですかと訊いたら、17年前からだよ、と答へられた。 その後、マキコを連れて、奇跡のメダル教会へゆき、聖女 Catherine Labouré [カトリーヌ・ラブレー] のご遺体を拝み、さらに近所にある聖 Vincet de Paul [ヴァンサン・ド・ポール] のご遺体のあるお寺も訪れる。こゝは2004年末に訪れてゐたので、4年ぶりの再訪となる。ちなみに、バティーユから最寄りのバス停 Sèvres-Babylone [セーヴル・バビロン] までは、87番で一本。カルティエ・ラタンとサン・シュルピスを通りぬける、眺めのよい路線のひとつである。 ワインを探すてふマキコとはボン・マルシェで別れ、セーヴル・バビロンまで戻って、ビアンションの古書市にゆかうと思ひ『パリ・スコープ』を広げると、この土日に Paris Manga なるコミケが開かれてゐるらしい。場所は、2000年のときにも行った17区の端 Porte de Champerret [ポルト・ド・シャンペレ] なるエスパス・シャンペレではないか。ちゃうど、セーヴル・バビロンからは84番のバスで一本てふことで、そこに行くことに。行ってみると、8年前に比して、ブースの数が増え、人もうじゃうじゃゐる。ただ、コスプレよりは、ゴスロリ系の恰好をした子らが多かったやうな。しかし、そのゴスロリにパンダ耳とかをつけてたりするのであった。 帰りは、ポルト・ド・シャンペレから92番のバスで Charles de Gaulle - Étoile [シャルル・ド・ゴール・エトワール] に出て、RER に乗り換へ。
(クラウザーさんがゐました)
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★2008.09.13(Sam)14:16
セルジー・ポントワーズ研修3日目
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| 午前中は授業。昨日とはクラスと担当者がテレコになる。小生はミュリエルの授業を参観して、記録映像を撮る。授業は、もちろんフランス語によるダイレクト・メソッド。そのため、ミュリエルは頻繁にホワイト・ボードに単語や文を書く。辞書のある学生たちは、それを引いて理解してたりする。 しかし、フランス語の処理にメモリを奪はれてるのか、er動詞の活用も覚束ないのには一寸ショック。 午には、セルジー・ポントワーズ連合市の副市長さんたちと、セルジー・ポントワーズ大学の国際交流担当副学長――英語が専門の彼女、まだ34歳ださうで――とともにアペリチフ。 午後は、リラがロダン美術館へ。雛罌粟組は、応用日英語学科の3回生で、チュータのリーダーである Fanny [ファニー] に率ゐられて駅前のショッピング・センターへゆき、お店探索とハイパー・マーケット Auchan [オーシャン] 内を巡る旅へ。ファニーはまっさきに化粧品チェーン店の Sephora へ。研修生も、15名中、女子14名てふ女子率の高さで、みな喜んで入店する。セフォラは1999年に日本に進出、心斎橋にも店舗をかまへたものゝ、2001年にあっさり撤退したてふ過去があるのだが、 当時ほとんどが小学生の彼女らは、そんなことは全然知らずであった。 オーシャンで解散したのち、チュータのひとり Raphaëlle [ラファエル] とともに Fnac [フナック] へ。
(オーシャン内で積極的に質問する研修生たち。3人のチュータが5人づつを率ゐてくれてゐて、これは Gwenaëlle [グウェナエル] のチーム)
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★2008.09.13(Sam)13:35
セルジー・ポントワーズ研修2日目
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| 諸々あって、漸くネットにつながった。てふわけで、日々のスケッチ。
午前中はガイダンス。担当は、Muriel [ミュリエル]、 Vanessa [ヴァネッサ]、Frédéric [フレデリック] の3先生。 午後は Lilas [リラ] クラスと Coquelicot [コクリコ] クラスに分かれ、後者はフレデリック引率のもと、パリのロダン美術館へ。100分ほどで巡ったのち、解散。パリ在住のフレデリックは帰宅し、小生が残りを率ゐて、エッフェル塔から凱旋門へと巡ったが、トロカデロで突然の沛然たる豪雨にあひ、ずぶぬれに。いちぶは帰還、いちぶはシャンゼリゼのお店にご飯を食べにゆき、流れ解散。
(フランスが今年下半期のEU議長国となったことを記念して、EUスターズの貼られたエッフェル塔。下には、EU諸国の国旗もたつ)
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★2008.09.07(Dim)08:16
ヘロドトス・ドット・ネット
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★2008.09.07(Dim)07:56
仏語圏百科事典
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★2008.09.07(Dim)07:37
ラマダーン
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★2008.09.05(Ven)07:53
わたしと小泉と麻生と
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