巴里便り

Mantes-la-Jolie 篇

(2000/02/01-03)


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2000/02/01
 大阪市立大學在外研究員C項(若手研究員用。最早若くもなきが)に中てゝ戴きて、今月一日(いっぴ)、諸々の雜務・氣兼ねを打ち棄てゝ、關空より Air France (エール・フランス)機上の人とはなりぬ。これより霜月の末までの十月(とつき)、佛の國にて研鑽・精進を重ねんがための旅なり。
飛騨高山上空 シベリア上空 歐州北部上空
飛騨高山上空 シベリア上空 歐州北部上空
 機は日航の乘り入れ便にて、乘員も乘客も殆んど日本人なり。しかも關空發ゆゑ、關西人の集團引っ越しの樣(さま)を呈して、Charles de Gaule (シャルル・ド・ゴール)空港[地名を取って Roissy (ロワスィ) 空港とも]に着きても「なんやねん、荷物なかなか出てけえへん、遲いがな」とて、フランスの地を踏んだる感の乏しきこと夥し。
シャルル・ド・ゴール空港の荷物受取所
シャルル・ド・ゴール空港の荷物受取所

 とまれ、7年ぶりのフランスなり。取り敢へず、居候させてもらふ豫定のF君の携帶に電話を入れることにす。諸々の情報より、フランスでも携帶持ちの増えたることは知れり。携帶、téléphone mobile (テレフォヌ・モビール)と云ひ初められたれど、昨今は portable (ポルターブル)と云ふが普通の由。フランス語の「携帶できる」は本來 portatif にて、 portable てふは anglicisme (アングリシスム 英語かぶれ)なり。されば、賣店にて「テレカ下さい」と云へるが、最初に發せる佛語とはなれり。
 軈(やが)て、F君登場。君は大學の同級生にて、社會學を修めたる後、某出版社の營業を經て米國に留學、英語力を鍛へ、歸國後某社に就職せるも、その某社は某企業に併呑され、その企業の社員としてフランスに派遣されてある人なり。卒業後音信は途絶えてをりたるに、君が小生の Web Page を見てメールくれて以來、十年餘りぶりにて付き合ひが復活、その後、F君は、突如、しかも佛語のフの字も習はぬにも拘らずフランス派遣を命ぜられ、2年半前より滯佛、小生にこちら來い來いと頻りと云ふて寄越したが、逐に實現の運びとはなりぬ。
 F君、相變はらず飄然と現はれ、クルマで來たから駐車場まで荷物を運ばねばならんと云ふ。成る程、いきなりクルマ持ちとは有り難き運びなり。
 さて、我々の向かへるF君の住まひは Mantes-la-Jolie (マント・ラ・ジョリ)と云ひて、Ile de France (イル・ド・フランス)の端っこ、Paris の北西60kmほどにある Seine 河沿ひの街 (Mantes 市役所)。Mantes とはケルト系の地名なり。
マント・ラ・ジョリ
マント・ラ・ジョリ(右端がパリ。セーヌ河は左に向かって流れてゐる)
 こゝは、かの Jean-Baptiste Camille COROT (ジャン=バチスト・カミーユ・コロー 1796-1875)も繪を描きに來た(Louvreに在り)ところにて、現在も古い佇まひの殘れる場所なり。日本人では佐伯祐三(1898年大阪は中津の生まれ。1928年パリで客死)が「夜のノートルダム」(彼の母校・北野高校所藏)てふ繪を殘せり。
 F君のアパルトマンは、マントの中心部、市役所の眞ん前の「大鹿莊」(Résidence Grand Cerf)てふ所なり。地階は駐車場にて、一時利用と繼續利用が一緒になりてあり。地上階(フランスでは歐州式に地上階は階數に數へず、rez-de-chaussée (レ・ド・ショッセ 車道に面した階の意)と呼ぶ。RCとか、0階と表示さる)には、銀行やら美容院やらの他に、Le Courrier (ル・クーリエ 「通信新聞」てな意味)てふ新聞社も入居せり。君の部屋は1階(日本式の2階)にて、招ぜらるゝまゝに足を踏み入れたれば、成る程廣大なる家にて、2DKとは云へど、巨大なる部屋が一つ空いたまゝにて、そこが小生の泊まる部屋なりき。
 旅裝を解くもそこそこに、メシを食はうてふ、F君に連れられて、近所のレストランへ行く。ナカナカに chic なお店なれど、その食事の量たるや、12時間の旅に疲れたる身には、到底腹中に收める能はざるほどのものにて、殘すの已む無きに到れり。F君はと見れば、矢張り殘してあり。流石、歐米人の胃袋、甘く見る勿れとの感を強うせり。
 家に戻りて、F君より、同居にかんする諸々を聞く。フランスの大抵のアパルトマン同樣、お湯はタンクに貯めたヤツを電氣で湧かす式のやつにて、一人がたっぷり使へば、それで打ち止め、次に貯まって暖かくなるまで3時間はかゝるといふものなり。そこで、君は朝風呂に這入り、小生は夜風呂に這入るてふ風に決めれり。早速シャワーを使はせて貰ひ、長かりしその日は(時差8時間てふことは、その日は32時間ありぬ)終はりぬ。


2000/02/02
 F君は勤め人ゆゑ、朝の7時過ぎには起床して、シャワーを浴びたる後、出勤する日々なり。朝食はと云へば、近所の café にゆきて、一個の croissant (クロワッサン)と一杯の crème (café crème の略)を攝るが習ひにて、小生も、君についてゆき、同じ朝食を攝ることゝなる。カウンターで立ち飲み・立ち喰ひせば、些か安く、併せて13,80FF(13フラン80サンチーム)ほどなり。ほどなく兩者を腹中に收めたるのち、F君は出社す。君の勤めたる會社は、マントの郊外に工場を持ちてありて、君はそのクルマで10分程度のオフィスにてデスクワークをこなすものなり。
薄明のマント
薄明のマント目貫通り。朝8時
 朝8時、未だ薄明の中を、F君が愛車フィアット・ブラバに乘りて去りて後、取り敢へず小生は部屋へと戻り、テレビのスイッチをひねりて、朝の番組を見る。
 フランスは6チャンネルにて、1から順に、TF1(テー・エフ・アン)、France 2(フランス・ドゥー)、France 3(フランス・トロワ)、Canal +(カナル・プリュス)、la 5e(ラ・サンキェーム)、M6(エム・スィス)と云へり。TF1・F2・F3は國營、あとは民營なり。Canal(これは「チャンネル」の意)は有料放送にて、デコーダを介さずば見られず(F君はデコーダを持ってをりたるため、小生も見らるゝなり)、映畫やスポーツ中繼をメインとする局なり。なほ、政治家などの人形が時事風刺をする les Guignols de l'info(レ・ギニョル・ド・ランフォ)を人氣コーナーに持つ Nulle part ailleurs (ニュル・パール・アィユール)は無料放送なり。ドキュメンタリーなど硬派の番組中心のTV5は、夕方より Arte(アルテ) てふドイツの局のフランス語版となる。Arteもやはり硬派中心なり。M6は午前中をミュージック・クリップに割き、あとは映畫や子供版組中心の若者向け局なり。
マントの古屋 マントの街角 セーヌ河
マントの古屋 マントの街角 セーヌ河
音樂學校 開發中の娯樂地區。9館入りのシネマ・コンプレックス 看護學校
公園裡の音樂學校 開發中の娯樂地區。9館入りのシネマ・コンプレックス 看護學校
 朝は概ね子供向けアニメを放映せり。しかもその9割方まではアメリカ製にて、バタ臭いものばかりなり。Japanimation は海外物の規制以來一時の勢ひを失ひて、殆んど無し。とは云へ、この年末年始にかけてフランスへゆきしK君より、「ポケモン」をテレビでやってゐたりとの情報を仕入れてあり。そのうちテレビ・ガイド週刊誌にしてチェックせんと思ふ。
 日本と異なりて、ワイドショーは存在せず。たゞ、F2の Télématin (テレマタン) と云へるのみが「おはよう朝日です」の如きものにて、グルメ、健康、新製品、芝居・映畫情報、お天氣、ニュースなどのコーナーを持つ朝の番組なれば、これを見る。
 テレマタンは8:30までにて、その後はアメリカもんのドラマとなれば、チャンネルを變へる。TF1はテレショッピングを流せり。その後アニメとなる。
田舎の街竝み 交叉點 12月の市の看板 古いお家
田舎の街竝み 交叉點 12月の市(いち)の看板 古いお家
市立警察署 郵便局 立共同公舎 ポケットに手を入れたまゝ(?)
市立警察署 郵便局。右側は役所の出張所 共同公舎(役場などが這入ってゐる) ポケットに手を入れたまゝ(?)
 あれこれ見るうち、お晝となる。外へ出て、食事をせる後、取り敢へずマントの街を見るべく、散歩開始。マントはセーヌに沿ひて東西に長き街にて、東が市役所などのある舊市街、西が高層住宅などのある新市街、SNCF (Société Nationale Chemin de Fer France ソシエテ・ナスィオナル・シュマン・ドゥ・フェール・フランス フランス國鐵)の驛は眞ん中に位置せり。まづは、F君の家を出て西の方へゆく。ゆきあたりばったりに路地から路地へと歩きゆくに、川端にいづ。セーヌなり。中州には年末の嵐でぶったふれた樹がそのまゝになりてあり。
墓地の横のお花屋さん 下校中の男の子たち サッカーの練習中
墓地の横のお花屋さん 下校中の男の子たち サッカーの練習中
道路標識 給水塔 マント・ラ・ジョリ驛
道路標識 給水塔 マント・ラ・ジョリ驛
 セーヌで反轉して、新市街を目指す。流石、郊外の街にて、昔ながらの瀟洒な一軒家の建ち竝び、長閑な晝下がりの樣なり。歩くうち、曇り空も快晴となる。新市街には體育館(Gymnase d'Albert Camusてふ名前なりき)、グラウンド、その向かふには高層住宅。ニュータウンの趣なり。さりながらF君によると、毎週末には、この邊で車が放火されてゐるとの由。斯樣な住宅は HLM (アッシュ・エル・エム habitation à loyer modéré アビタスィオン・ア・ロワイェ・モデレ 低家賃住宅)と云へるものなれど、なにゆゑか、よく劍呑なる地域とはなれり。
 とは云ひ條、長閑なる晝下がりの新市街(の入り口)は、スポーツ地區でもあり、男の子たちがサッカーの練習に汗を流し、毫も恐ろしからず。
 マントを大雜把に一周して、最後は、パリに向かふ際に利用するマント・ラ・ジョリ驛の場所を確認して歸宅せり。


2000/02/03
 例によりて散歩す。F君宅の裏側に、Saint Macrou (サン・マクルー)の塔といふ18世紀の遺物あり。この塔の近邊は些かなる廣場になりてありて、毎水・土曜の午前中には市が立つとの由。
 さて、本日は木曜なり。F君は、こちらに來てより、毎木曜には、會社を早引けして、パリまでフランス語の家庭教師に習ひにゆきたり。勤勉なり。なれば、小生も共にパリへゆくかと問ふ。更には、今晩、芝居を觀る心算(つもり)なるが、キミも行くか、と云へり。異存のあらうはずもなく、君の歸りを待ちて、パリへドライヴすることになる。
サン・マクルーの塔 廣い公園 インターネット・カフェ
街中に聳えるサン・マクルーの塔 廣い公園 いつ見てもシャッターの閉ぢてゐる店。後に從業員の殺人事件が發覺
F君宅の直ぐ裏 引っ越し屋さん エトワール廣場へ向かふ
開かずの店の鄰。F君宅の裏手 同。引っ越し屋さんの古い建物 エトワール廣場に向かふ車中
 制限速度130kmでも遵守してるヤツなど誰もをらぬ高速道路を、制限速度内にて突っ走ること1時間ばかり、車はパリ市内へと入れり。
 パリ市内の道路は、實に無法者の集團にて滿ち溢れたり。F君も、最初にパリに乘り込んだときには、大いに緊張せりと云ふ。小生には、到底無理ならん。我勝ちに走るので、逐に車線表示さへなく、運轉者諸氏の氣分によりて、2車線が3車線にも4車線にもなりぬ。
 壓巻は、エトワール廣場、即ち凱旋門の下のロータリーなり。ロータリーは常に反時計囘りにて、内側の車優先なれば、まづ、ロータリーへ進入するのに難澁し、ついでロータリーから出るにまた困難を覺えたり。流石F君は、突っ込んでくるヤツや直角に停まってるヤツを躱(かは)し々々、Champs-Élysées (シャン・ゼリゼ)通りへと進みゆきたり。
 さて、パリの中心、セーヌ左岸の Saint Michel (サン・ミシェル)に着きぬ。F君は、こゝの一角のカフェにて、18時から19時半まで個人授業を受く。晩餐にゆくのはその後なれば、小生は、本屋で暇を潰すことゝする。
 こゝらで本屋と云へば、取りも敢へず、黄色い看板(てふか、庇)が目印の Gibert Jeune (ジベール・ジューヌ)なり。サン・ミシェルの一角に5階建ての本店と、そこらに「兒童書」「科學書」「政經書」などの專門小店舗をばらまき、なかなかの殷賑(いんしん)ぶりを示す。なほ、パリで一番大きな本屋さんは、このサン・ミシェル通りをちょいと南に下った Gibert Joseph (ジベール・ジョゼフ)にて、こちらは青き庇が目印なり。兩書店とも、元は同じ會社なるが、なにゆゑか知らねど今では別會社として、競へる仲なり。いづれも新刊書と共に中古本も同じ棚に竝べて賣りてあり。こちらの書店はよくこの方式を取れり。
 「言語・文學」の店に籠もれば、1時間半はあってふ間に過ぎて、F君の授業を受けてあるカフェを目指す。こゝで、君の家庭教師たるV君に會ふ。スキンヘッドで今風の恰好をせるV君は30歳、Georges Bataille (ジョルジュ・バタイユ: 1897-1962)で文學博士號を取り、著書にもしたる人なるが、博士になりて後も職無く、斯樣に家庭教師などして暮らせるといふ。
 家に歸るV君と別れて、歩いて芝居小屋に向かふ。パリには180以上も劇場(こや)ありて、Pariscope (パリスコープ)や L'Officiel des spectacles (ロフィスィエル・デ・スペクタークル)の情報誌にしても、芝居の欄は筆頭にあり。然なる點に、彼我の「文化」の相違を感ず。
 F君の觀たかったのは、君が贔屓のベルギー生まれの若き女流作家、Amélie Nothomb (アメリー・ノトンブ)の戲曲 "Les Combustibles" (レ・コンビュスティーブル 焚き付け)の舞臺化なり。ノートンは近作の "Stupeur et tremblements"(ステュプェール・エ・トランブルマン 驚愕と震撼)にて、日本企業に勤めた白人女性の體驗せる不條理極まる世界を描き、アカデミー小説賞を受賞せり。彼女の經歴から實體驗かと疑はれたりもせるが、實體驗に他人の經驗などをこき混ぜて作りたるものならんと云はる。
 劇場はポンピドゥー・センターの直ぐ近くにある Théâtre Essaïon (テアトル・エサイヨン)。Salle Genet (サル・ジュネ)と Salle Beckett (サル・ベケット)てふ2室がありて、前者は100席、後者は80席。無論、フランスに棧敷席は存在せず。「焚き付け」は後者の部屋にて上演さる。
 部屋に入りてみれば、蒲鉾型に刳り拔かれたる cave (カーヴ 地下倉庫)を改造したるが如き作りにて、バトンなど存在せず、石組みの壁・天井に、強引に照明がぶら下げてあり。
 配役表に、役者の交代のありしことが記されてありけるが、實際に觀ると、「教授」役が女性の演出家自身になりたり。最初は戲曲の内容を變更して、女性教授にしたのかと思ひきや、ストーリーに變更なく、若い娘に誘惑される役なれば、甚だ當惑せり。
 可もなく不可もなき芝居の終はりてみれば10時、その邊をぶらりと歩きて歸れり。


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