黒猫亭舊館
黒猫亭主人謹製藏書録・贅言他
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2008.01.30(Mer)06:29  南條竹則『虚空の花』(筑摩書房)
虚空の花

虚空の花 東大出の英文学者にして、翻訳家。しかしながら、「酒仙」でファンタジーノベル大賞の優秀賞をとった南條竹則は、中国趣味人でもある。この「虚空の花」は、19世紀フランスの作家ヴィリエ・ド・リラダン伯爵――日本では「リラダン」と呼ばれることが多いが、フルネームは、Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste de VILLIERS de L'ISLE-ADAM [ジャン・マリ・マティアス・フィリップ・オギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン]、仏文業界では「ヴィリエ」と呼ばれるのが一般である――の長篇ファンタジー「未来のイヴ」L'Ève futur [レーヴ・フュテュール] についての研究論を柱に、「未来のイヴ」について描かれた中国の群仙図をからめ、遠い日の恋バナをちょっぴり入れるてふ式のマイナー小説。

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2008.01.29(Mar)06:27  トジツキハジメ『初恋の病』(フロンティアワークス DARIA COMICS)
初恋の病 (Dariaコミックス)

初恋の病 (Dariaコミックス) 『ユリイカ臨時増刊 BLスタディーズ』のインタヴューによると、小説家志望で幻想短篇を書いてゐたトジツキの漫画は、やはり文藝風味のひと味違ふBLだ。「人外BL」を書きたいてふ彼女、「きつねつき」でその趣味を遺憾なく発揮してゐる――そしてエロ皆無――。さらに大層ガンダム・マニアらしいが、人物ではなく「モビルスーツ・カップリング」に萌えるらしく、イチオシは「νガンダム×サザビー」なのださうだ。「ロボ萌え」恐るべし!
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2008.01.29(Mar)05:54  タマール・ガーブ『絵筆の姉妹たち――19世紀末パリ、女性たちの芸術環境――』[味岡京子](ブリュッケ)
絵筆の姉妹たち―19世紀末パリ、女性たちの芸術環境

絵筆の姉妹たち―19世紀末パリ、女性たちの芸術環境 これ亦、現在の美術史研究の一端を示す本書は、副題どほり、19世紀末のパリにおいて、女性藝術家たちが、いかにサロン(官展)=国家=男性藝術家によって抑圧され、排除されてをり、いかにして団結してそれと闘争し、しかしながら、組織内部にいかなる軋みを抱へ込んだかを示す。
 原書は1994年刊。Tamar GARB は、フェミニズム的美術史家として知られるロンドン大学の美術史学教授。訳者はお茶女で西洋近代美術史を専門とする院生。
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2008.01.29(Mar)05:54  永井隆則・編『フランス近代美術史の現在――ニュー・アート・ヒストリー以後の視座から――』(三元社)
フランス近代美術史の現在―ニュー・アート・ヒストリー以後の視座から

フランス近代美術史の現在―ニュー・アート・ヒストリー以後の視座から フランス近代絵画といへば、美術展覧会のドル箱的存在で、われわれは気楽にあれがいゝの悪いのと眺め過ごしてゐるが、美術史学の世界にも、ポストモダンやら言語的展開やらポストコロニアルやら構築主義やらが、当然のやうに存在してゐて、研究者たちは、常に up to date な研究をめざしてゐるわけだが、それは流行に乗り遅れまいとのスケベ心ではなく、己の研究方法を常に見直しつゞける研究者的良心からあらはれる必然的要請によるものである。
 本書は、8人の美術史学者たちが、クールベ、マネ、ドガ、セザンヌ、モネ、ロダン、ゴーギャン、マティスを論ずるなかで、美術史研究の現在の一端を示したものだ。編者の永井隆則は、京都工業繊維大の准教授。
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2008.01.20(Dim)06:55  検索語彙
 久しぶりにサーバのアクセスログを見てみたら、検索語彙に「川上未映子」が急増、2位にランクインしてゐて、芥川賞効果のほどを思はしめる。なほ、検索語1位は「黒猫亭」3位は「chat noir」。4位の「ジャミラ・ブーパシャ」はコンスタントにヒット数を稼いでゐる。
 しかし、「川上未映子/三枝子 巨乳」てふ複合検索の検索件数が併せると3位にランクインしてしまってゐるのは如何なものか。ぜんたい、何を期待してゐるのであらう? リビドー恐るべし。そもそも、このブログ裡にそんなエントリーは存在しねーし。
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2008.01.17(Jeu)07:34  13年
PICT0041.jpg 800×1067 65K 1995年1月17日火曜日午前5時46分52秒、兵庫県南部地震が発生した。所謂、阪神・淡路大震災である。そのすこし前、なにやら不穏な予感に目覚めた小生、ゴーてふ地鳴りを聞いてゐる。間をおかず襲ってきた揺れに、周章てゝ布団を抜け出し、傍らのスチール書棚を抑へたが、2本の腕で4連の書架を抑へる能はず、2連は倒壊、書籍は部屋一面に散乱した。
 しばし惘然の後、その書架を被った状態のテレビをつけると、地震の速報が流れた。5時49分5秒、当時BK所属であった宮田修アナウンサーの、7時間にわたる奮闘の始まりである。宮田アナは、その間、食事はもちろん、トイレにも行かず、一人でキャスター席を守り続けた。
 部屋を片付けながら、テレビを見続ける。当時、火曜日は神戸市の西端にある神戸学院大学まで非常勤にゆく日であったため、7時には出かけねばならなかったのだが、空が明るみ、さまざまの事態が明らかになると、これは休講であらうと判断するに到る。なにしろ阪神高速が倒壊してゐる。電車はもちろん動いてゐない――なほ、神戸学院の授業は、その学期中つひに再開されることはなかった。もちろん、テストもなしである。小生は毎回のタスクで素点を出してゐたゆゑ、成績を付けることに困難はなかったが、定期試験一発で成績を出さうとしてゐた教師たちは、大変苦労したと思はれる――。
 幸ひ、わが下宿の被害は少なかった。書棚以外は、二三のものが転落したくらゐである。大学はどうか。てふわけで、9時ごろ大学に登校する。当時、文学部棟が改修中のため、われわれは現在組合の建物になってゐる旧法学部棟に間借りしてゐた。部屋が足りないため、下っ端の小生の部屋は資料室と兼用で、奥に机をおいて暮らしてゐたのだが、背後に立つ書架からも、数冊の本が転げ落ちてゐたのみであった。
 次いで、事務室へ行く。当時の文学部事務室は、現在研究支援課の置かれてゐる1号館の部屋にあった。そこへ学生たちが訪れる。じつは、この日は、卒論提出〆切日なのだ。第1部の〆切は正午。だが、出勤できてゐたのは、車通勤のMさんのみ。学部長も事務長も、必死の通勤途上である。指揮系統は滅茶々々であった。卒論担当の職員さんも出勤できてゐない。〆切時間は迫る。当時、担当者以外が受け付けることには、諸々困難があったゝめ、Mさんは悩んだ。
 事務室には、やはり車で駆けつけた教務委員長の細井先生や、小生同様ご近所組の天ヶ瀬先生もゐて、われわれが証人になるてふことでMさんも決断、卒論を受け付けることになった。しかし、正午を過ぎても続々と学生たちは訪れる。当然であらう。このとき、動いてゐる交通機関は近鉄のみ。鶴橋から走ってきましたてふ学生もゐたほどである。この日、本日全学休講の通達が出されたのは、漸く14時過ぎ――ちなみに、その夜には、わざわざ事務から、明日は授業ありますからと電話がかかってきてゐる。翌日1限目のフランス語の時間には、大半の学生が顔を揃へてゐたが、阪神間在住の子らは、連絡もつかない状態であった――、論文受付期間が延長されたのは云ふまでもない。
 その頃、神戸市東灘区魚崎で独り暮らしをしてゐた小生の祖母も連絡がとれなくなってゐた。結局、実家の母親が隣家のご主人の出してくれた車――ベンツである――で爆走、救出してきたのであるが、以後、祖母がその家に帰ることはなかった。小生自身は、その次の日曜日、父親とともに祖母の家に整理に行ったをり、当時運行してゐた鉄道の最西端駅である阪急西宮北口から蜿蜒数時間歩く列に加はって、震災の現状を目の当たりにした。このときの経験が、後に一本の芝居を書かせることになる。震災から2年たった1997年2月、扇町ミュージアムスクエアで上演された『風の序曲』てふ芝居がそれである。

(当時、魚崎も200名の死者を出した惨状であったが、国鉄所属の建築家であった祖父の選んだ家屋は流石に丈夫で、屋根瓦の滑落、天井の損壊、梁の断裂、漆喰の崩落などの半壊にとゞまった。2003年に売却、取り壊されて、今はもうない)
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2008.01.17(Jeu)07:21  川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(青土社)
先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ 小生贔屓の川上未映子の単行本3冊目。ブログによると、それはまあさまざまの雑誌媒体に登場であるが、『文學界』に書かされてるなと思ったら、案の定芥川賞にノミネート、と思ったら、昨日、受賞してしまった。2回目のノミネートで受賞とは些か早すぎる気も。ワンチャンスをものにして大関に昇進した"そんな夕子"の増位山みたいである。芥川賞に金を出してゐる文藝春秋の雑誌の『文學界』に書かせるのは芥川賞候補とする心算満々てふことであるから、やはりとらせたい有力候補ではあったのであらう。なにしろ、1回目のノミネート作は『早稲田文学』掲載である。目を付けた編集者がゐるのかもしれない。
 しかし、出発点が歌手とはいへ、辻・ミポリンの夫・仁成とは大いに趣きも異なる――町田・布袋に殴られ・康には比されることもあったが――。そんな彼女の、これは『ユリイカ』に載せた「散文・詩・作品」4作に書き下ろし3作をくはへた一冊である。
 デビュー作でもある表題作は、彼女のトレード・マークでもある「関西弁饒舌連綿体」であるが、他は「共通語連綿体」。しかし、書き下ろし作では「饒舌」は後退し、部分的に戯曲風になってゐるところもあったりと、藝を広げるべくあれこれ試みてゐる様子が窺へる。
 これで益々露出や仕事が増えるであらうが、アマ横綱と学生横綱を土産に鳴り物入りで入門したものゝ、結局三役にもなれず29で引退してしまった大翔山のやうに、早々に消耗させられてしまはぬことを願はずにはゐられない。
 なほ、彼女の対談連載が『WB』(早稲田文学)で読める。しばらくするとwebに載るのでありがたい。ちなみに、第1回のお相手は、彼女の最初の本を年間ベスト3に選んだ読み巧者・若島・ナボコフ・正先生だ↓。

http://www.bungaku.net/wasebun/pdf/WB010WEB.pdf
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2008.01.04(Ven)23:46  ぞろ目
suizo.jpg 745×520 218K 「揃ひ目」から「ぞろ目」になったと思はれるこのことば、ふたつの賽の目がどっちも1だと「ピンぞろ」となる。もちろん博打用語だ。ちなみに「タメ」も、この「同じ目」から来てゐるらしい。つまり「た目」てふことであらう。でも、「た」ってなんだ?
 てふわけで、四ぞろの丁、44歳と相成った。態々お祝ひメールなどくだすった方々、ありがたうございやす。Mille fois merci ! いくつになってもお祝ひってのは嬉しいもんですな。
 さて、仕事々々。

(絵がないのも殺風景なので、HDD内に転がってゐた16年前の年賀状のスキャンしたのを。浪花グランドロマン「水像都市」の美術イメージ。ロゴも小生作)
  • しょうこ (2008/01/05 10:58)
    おめでとうございます。私もぞろ目になりました
  • ひより (2008/01/06 15:20)
    おたんじょうび、おめでとうございます!この日記ではじめて先生のおとしを知りました。。もっと若いとおもってたのでびっくりしました(*0*)
  • 黒猫亭主人 (2008/01/08 03:09)
    >しょうこ
    さういへば、誕生日近かったんやな。22か。若いなう。下のヴェルレールのやうに、ランボーに発砲して捕まり、獄中から窗ごしに空を見あげながら「どうしてしまったのだ?」とかならぬやうに、悔いなき日々を送りたまへかし。
    >ひより
    いや、もうこんな歳なのだよ。ひよりはご結婚おめでとさんやね。幸せに暮らすがいゝさ。笑
  • マサコ (2008/01/16 08:06)
    遅くなりましたがお祝い申し上げます。教師という職業をしていると常に若い人との接点があるから、いつまでも若いままでいられるのかもしれませんね☆私もいつまで二十歳前後に見られるかチャレンジします(笑)
  • 黒猫亭主人 (2008/01/19 19:18)
    >マサコ いや、大丈夫、キミやったらあと10年はいけるで!
  • はやみげんき (2008/01/20 11:13)
    僕としたことが、うっかりしておりました。遅ればせながらお誕生日おめでとうございます。それにしてもこんな若い44歳知りません。僕も挑戦しようと思います。
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2008.01.04(Ven)23:46  矢作俊彦、司城志朗『サムライ・ノングラータ』I, II(ソフトバンク クリエイティブ SB文庫)
サムライ・ノングラータ I (SB文庫)』『サムライ・ノングラータ II (SB文庫)

サムライ・ノングラータ I (SB文庫)サムライ・ノングラータ II (SB文庫) 文庫を作ったソフトバンクが、目玉として、矢作作品の絶版モノを出してきた。この作品は、かつて角川文庫から出てゐた矢作・司城合作3部作の2作目『海から来たサムライ』の復刊であって、矢作俊彦・原作、関口ジロー・画で出てゐた同名の現代モノの漫画『サムライ・ノングラータ』――こちらは小学館ビッグコミックスから2巻出てゐる――とは全くの別物である。のみならず、ストーリーは変はらないものゝ、大々的に改稿が施されてゐる。基本的には、説明的な文章や改行が削除され、スピード感を重視した文体となってゐるが、そのほかにも手が加はへられた箇所は数へきれない。たとへば、冒頭からして斯様な具合だ。

 濡れ縁の向こう、黒部委の裏に人の気配を知ったとき、丈太郎は、ちょうどジュール・ヴェルヌが書いた《驚異の旅》シリーズの一冊を開いたところだった。
 息を詰め、爪先立ちした男たちの気配。それも二人や三人ではない。少なくとも十人、多分、等間隔にだろう、何を待つのか凝っと身を潜めてゐいる。彼らを今、硬ばらせている気合いが、高い塀を越え、手入れのいい植込みを越え、ぴたりと閉ざした障子を越えて、丈太郎にそれだけのことを報せた。
 塀の向こうは手狭な路地だ。洟たれ小僧が泥棒猫を追って駆け抜けることはあっても、大人となれば、御用聞きさえめったには通らない。
 夜具の上にくるりと腹這いになり、丈太郎は、本を抛り出した。(『海から来たサムライ』I: 7)

 手がとまった。寝そべって読んでいた本をぱたんと閉じる。字面から目を上げ、そのまま動きをとめて、丈太郎はゆっくり息を吸いこんだ。
 邸(やしき)のまわりに誰かいる。
 ここは離れの一室で、障子の向こうには濡れ縁があり、広くはないが庭があり、黒板塀がぐるりと邸を囲んでいる。その塀の向こうは狭い路地だ。たまに通るのは魚をくわえた泥棒猫と、猫を追いかける洟たれ小僧くらいのものだ。大人はめったに通らない。物売りだって入ってこない。
 そこにひとの気配がする。息を凝らし、爪先立ちをした男の気配が。それも二人や三人ではない。ざっと数えただけで十人ちょっと、まるで最前線で暁の雄叫びでも待っている軍隊のように、じっと身を潜めて動かない。その気配が黒板塀を越え、植込みを越え、ぴたりと閉めた障子を越えてぴりぴり伝わってくる。
 丈太郎は本を横にどけた。(『サムライ・ノングラータ』I: 7-8)

ト、まあ、駭くほどの手の入れやうで、もちろん改稿は全篇に渡ってゐる。この辺は、司城(つかさき)が手を入れたのであらうてふのが解説の井家上隆幸の説だが、改変は文章にとゞまらない。主人公の鹿島丈太郎は不動であるが、チームを組んでゐた海軍大尉・川地剛士は篠宮剛志に、元会津藩士・樋口月心は黛一葉に、爆発物のエキスパート一色孝也とその弟分の善彦は杉山郷の茂丸とお相撲の常蔵にと、名前も変更されてゐるのだ。孝也(たかなり)改メ茂丸に到っては、その後の人生まで変はってしまった――なにしろ、杉山茂丸といへば政界の黒幕、あの夢野久作の父親である――。これは再読せずにはゐられまい。
 ちなみに、タイトルは、相手国に受け入れ拒否された外交官のことを指す外交用語 persona non grata [ペルソナ・ノン・グラータ](歓迎されざる人物)のもぢり。non grata で「好ましからぬ」てふ成句にもなってゐるが、元はラテン語。複数形は personae non gratae である。
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2008.01.03(Jeu)01:36  恭賀新禧
100_2771.jpg 800×600 187K  ウチヲデテミリヤアテドモナイガ
  正月キブンガドコニモミエタ
  トコロガ會ヒイタヒヒトモナク
  アサガヤアタリデ大ザケノンダ
         (井伏鱒二『厄除け詩集』講談社文芸文庫: 50)


 高名なるこの訳詩、もとは高適(コウ・セキ)の「田家春望」――「田舎の春景色」てふ意――である。
  
  出門何所見
  春色滿平蕪
  可歎無知己
  高陽一酒徒

ト、閑職で無聊をかこつさまをうたった詩だが、最後の「高陽の一酒徒」とは、『史記』に出てくる酈食其(レキ・イキ)の故事から来てゐる。
 その昔、対秦反乱に参加した劉邦のもとに、ひとりの儒者がやってきて面会を申し込む。元来学者嫌ひの劉邦、そんなヤツには会ひたくないとけんもほろゝ。そこで、酈食其、啖呵を切る:「俺は学者ぢゃねえ、たゞの高陽の呑ん兵衛だ(高陽の酒徒)」。なるほど、この言、一点の嘘偽りもない。
 しかし、これで劉邦の臣下となった食其の最期は些か気の毒なものだ。中国統一へ向けて邁進する劉邦、「国士無双」と称せられた韓信に命じて、斉を攻略せんとする。ところが、一方で酈食其がいっぺん相談ぶって来やしゃうってんで、これも派遣、食其は、みごと斉に降伏を認めさせてしまふ。この報を聞いた韓信は拍子抜けの態であったが、部下の蒯通(カイ・ツウ)の武人が儒者に負けてなるものかてふ唆しに乗って、結局、斉を攻める。当然、斉王は怒り、食其を責め、「漢の軍を止めれば、命は助けてやる」と云はるゝも、「大事を成すものは細かいことにこだはらぬ、俺を信じぬおまへが悪い」と答へて、到頭、煮殺されてしまふ。高陽の酒徒、最期は熱燗であった。
 さて、若い頃、不良少年に股くゞりを強要されても――歌舞伎の「助六」で、助六じつは曽我五郎が、通りすがりの人々に喧嘩をふっかけるのに「股ァくゞれェ」と強要するのは、こいつの応用編であった――、恥は一時のものと自重して股をくゞったほどの韓信であったが、功成り名を遂げてからは、些か増長気味ではある。斉を滅ぼした後、劉邦によって斉王に封ぜられ、楚の項羽からも懐柔策がとられるやうになると、またも蒯通が唆す。流石にこれは退けたものゝ、垓下の戦ひで項羽が敗死すると、今度は楚王に封ぜられ、そこで讒言にあひ、出身地の淮陰侯に格下げされる。このことがきっかけで、軈(やが)て謀反を計画するも、情報が漏れ、かつて自分を「国士無双」と称してくれた蕭何のはかりごとにはまって捕らへられ、一族もろとも処刑されてしまった。
 ちなみに、問題の源の蒯通、その後、漢王・劉邦に捕らへられ、詰問されるも、流石は弁士、韓信を唆したのは、韓信の臣下として当然のことをしたまでとしゃあしゃあと抗弁。反論できぬ劉邦は、彼を釈放したのであった。知力も武力も、舌先三寸には勝てなかったわけである。

(とりあへず高津宮に初詣)
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