★ 2007.08.30(Jeu)06:32
中島岳志『パール判事――東京裁判批判と絶対平和主義――』(白水社)
FRENCH BLOOM NET に書いたエントリに加筆修正、かなづかひ変換ずみ。 『パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義 』 かつて、祖国インドの独立運動に身を投じ、アジア主義者たちの庇護のもと、日本に潜伏しながら論陣を張り、最後は日本に帰化したラース・ビハーリ・ボースの生涯を論じ、2つの賞を得た好著『中村屋のボース』 の著者が、おなじ編集者(すーちゃん)、おなじ装丁者(矢作多聞さん)と組んだ今回の書籍の主人公は、ボースとおなじベンガル地方でおなじ年に生まれたラーダービノード・パール。あの極東国際軍事裁判(東京裁判)にて、「全員無罪」の意見書を提出したパール判事である。 あとがきで、「ボースの人生を書いたときは、同じ目線の人間として、ボースを捉えようとしていた」が、今回は「その論理の鋭さと孤立を恐れない高貴な精神に圧倒され続けた。遙か上の高いところにいるパールを仰ぎ見るという感覚が、私を支配し続けた」と記す中島さんは、今回の書籍では、人間パールについてより、東京裁判におけるパールの意見書の解説と、その後の来日時――パールは、裁判終結後も3度来日してゐる――の、パールの「世界連邦希求」と「絶対平和主義」――パールはガンディーの崇拝者でもあった――の主張ぶりについて多くをあてゝゐるが、そこには「パールのご都合主義的利用が横行する現代日本において、まずはパールの発言を体系化しておく必要がある」(あとがき)との想ひもあった。パールは、厳密な国際法の解釈――11人の判事団のなかで、国際法の専門家はパールともうひとりのみであった――にしたがひ、起訴自体が不可能であるとして、無罪を結論したのであり、日本軍の戦争については――そして「戦争」そのものについてを――許さざるべき蛮行として、寸毫も容認してゐない。そもそも戦勝国による軍事裁判を容認できないとしたのも、それを認めることが、「勝てば官軍」的発想、すなわち「是が非でも勝つべし」てふ「戦闘推進精神」を生み育てゝしまふてふ考へのゆゑであった。 もちろん、大英帝国に長く支配されたインドの人間として、大国への批判的まなざしも遺憾なく発揮されてゐる。後の来日時には、平和憲法にもかゝはらず、戦後は対米追従路線をとる日本と、それを主導するアメリカを難じた発言も多い。安倍首相は訪印の際、強く希望して――彼の敬愛する祖父は、不起訴になったとはいへ、A級戦犯容疑者であった――パールの息子さんと面談したやうだが、かろくあしらはれた感がある。そもそも彼は、この本、読んでへんやろし。 人間パールの側面は比較的おさへられてゐるとはいへ、その生ひ立ちなど、興味深い記述も多い。1886年1月7日、ベンガル地方の陶工カーストの貧しい家に生まれたパールは、成績優秀で、いろいろなパトロンや奨学金の援助を受けながら、つひにカルカッタ(コルカタ)大学で数学の修士号を取得、1910年、会計院に就職するも、法律に興味をもち、独学で知識を身に着ける。が、そこで、数学教授に採用され、法学への道を断念するが、その後も勉強は続け、1923年に、カルカッタ大学の法学教授に就任、翌年には法学博士の学位も取得してゐる。その後、1941年にはカルカッタ高等裁判所判事、1944年にはカルカッタ大学副総長に就いた。その在任中の1946年、極東国際軍事裁判への判事就任が要請――アメリカにたいするインド政府の強い主張によって――され、副総長を辞して来日したのである。 また、この本は、箱根にある「パール下中記念館」から始まるが、平凡社の創始者にして、パール再来日に尽力した世界連邦主義者・下中彌三郎の興味深い伝記にも一章がさかれてゐる。 東京裁判では、パール判事が判決に反対し意見書を提出、ベルナール判事(仏)とレーリンク判事(蘭)が一部に反対し意見書を提出したほか、ジャラニラ判事(比)とウェッブ裁判長(豪)自身も、意見書を提出した。ちなみに、フランス代表のアンリ・ベルナール Henri Bernard 判事の意見は、「条約違反と犯罪を同一視してはならない 」てふもので、裁判の根拠に疑義があったやうだ。 さて、現在、国際法的にはいっさいの侵略戦争は違法である。そして、日本國憲法の第98条第2項は「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」とあって、国際法を遵守する以上、日本は侵略活動はできない。もちろん、一方的に「侵略ぢゃないよ」と主張してもさうならぬのは云ふまでもない。国会で法学研究科の松田先生が証言したやうに 、イラクを「支援」するといふても、それが「侵略」になることもある――解釈は一方的には決まらず、常に相互行為の結果生ずるわけだから、それは当然であらう――。そして、さうなれば憲法9条のみならず、98条にも違反することになるわけだ。いづれにせよ、憲法てふのは、国民が国家を規制するためのものであって、その逆ではないことを知らねばならない。 最後に、ネタとして「ボーガスニュース」の記事 。
★ 2007.08.30(Jeu)05:40
フランス à 長居 avec 赤提灯
長居競技場で開催されてゐる世界陸上 Le Championnat du monde d'athlétisme d'Osaka 2007 [ル・シャンピヨナ・デュ・モンド・ダトゥレティスム・ドーサカ](あるひは複数形で Les Mondiaux d'Osaka [レ・モンディヨー・ドーサカ])。日本ぢゃ、もう踊る大捜査線には出たくない織田裕二が日々見られるわけだが、ココっつぁん 情報では、フランスの中継が↓http://video-direct.france2.fr/ http://athletisme.france2.fr/mondiaux-osaka-2007/videos/ で見られる。そして、この France 2 の長居特設スタジオに、「日本っぽさ」を演出すべくほどこされた装飾は、司会者の両脇にぶるさげられた「キャベツ焼」「お好み焼/焼そば」の赤提灯。こりゃ、なんてふか、寧ろ「大阪っぽさ」を示してるのかしらん? とまれ、Osaka の名前がフランスに売れるのはえゝこっちゃ――初日は「オザカ」と発音してた司会者も、翌日からは「オーサカ」てふやうになった――。 そして、日本女性 Mme Misa RIVA による Misa Voir Vivre(ミサ、見る、暮らす)ってな日本紹介のやうなんだか何なんだかのコーナーもあるぞ。
★ 2007.08.16(Jeu)04:15
川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』(講談社)
『わたくし率 イン 歯ー、または世界 』 その川上未映子の名を知ったのは、今年上半期の芥川賞にノミネートされたからである。このときは、ミュージシャンてふことゝ、掲載誌が『早稲田文学0』――商売的に苦しくなった『早稲田文学』が一時休刊、フリーペーパー『WB』を経て、再び復活したもの――だったてふことから、マスコミ的にはずいぶん報道されたやうだが、小生的には、同時にノミネートされた松井雪子――かつて『おんなのこぽこぽん』などを愛読した漫画家――の方に眼がいったものであった――残念ながら、ふたりとも受賞せず――。 「私」は「脳」なんかではなくて「奥歯」裡にありといふ主人公?の饒舌な――テニヲハ抜くのは野坂昭如風で、連綿と続くのは石川淳風でもあり、笙野頼子風でもある――語りと、まだ見ぬ子供への手紙風の日記と、三人称客体描写の、基本3パートからなる。永井均の愛読者であるからには、ヴィトゲンシュタインも読んではるのやろか? 併録されてゐる短篇「感じる専門家 採用試験」も、フリーペーパー時代の『WB』に掲載されたもの。元は詩の感覚で書き始めたてふこれも、関西弁饒舌体だ。なほ、こちら にてオンラインで読める。 ちなみにこの本、PVもあって――アルバムにも参加してゐるチェロ・トリオのBGMが良い――、それが、これ↓。絵は著者ご本人によるさうな。
★ 2007.08.16(Jeu)04:15
川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎)
『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります 』 昨年の毎日新聞の「今年の3冊」にて、我らが若島・ナボコフ・正先生 が取り上げられてをったてふのを全く知らずにゐた一書。「文筆歌手」川島未映子のブログ――その名も「純粋悲性批判」 ――からの抜粋をまとめたもので、その関西弁ばりばりの文体とタイトルにイチコロ。 「川上三枝子 」としてメジャーデビュー――FM京都で番組も持ってたらしい――した彼女、「未映子」と改名してCDを出してゐる大阪発の――城東区出身。大阪市立工芸高校卒――ミュージシャンであったが、そもそもの文学少女――てふか、ことばに淫した者――ぶりが嵩じて、到頭小説を書くにもいたってしまったてふひとであり、そしてまた「私」に捕らはれたひととして、哲学者・永井均にも傾倒、日大に移った永井の聴講生にならうと考へてゐるらしい点、尾崎翠『第七官界彷徨』の小野町子の末裔といふべきか――じっさい、彼女は「第九感界彷徨」てふ書評エッセイを連載してゐた――。近頃ちょっと目が離せない書き手ではある――歌の方は、むしろ正統派、てふかメジャー向け?――。
★ 2007.08.15(Mer)08:07
敗戦と盧溝橋事件
敗戦から62年目である。だが、極東国際軍事裁判、所謂東京裁判において、パール判事は、日本の起こした戦争は、1937年7月7日の「盧溝橋事件」に始まると論じた。すなはち、今年は戦争開始70年目なのだ。じっさい、同年の今日、8月15日には、日本政府が「帝國トシテハ最早隱忍其ノ限度ニ達シ、支那軍ノ暴戻(ぼうれい)ヲ膺懲(ようちょう)シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス爲今ヤ斷乎クル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ」との声明を出すにいたってゐる。最初の一発については諸説あるやうだが――中国軍の挑発てふ論もあるが、その場合も、前年の日本による中国駐留軍3倍化が挑発的行為と看做され得なくはないであらう――、結果的に、太平洋戦争への道を開いたことになる。 さう、これは結果論だ。だが、認識・判断の構成からしてなべては結果論である――結果からしか判断できない――がゆゑに、すべての行動には「事後的に見れば」結果が含意されてゐることになる。当然、いかなる結果においても、われわれは、事後的に責任を引き受けざるを得ない。「そんな心算ぢゃなかったのに」てふのは、いつだって世迷ひ言にすぎないのだ。
★ 2007.08.14(Mar)04:01
UMINO Chika, Honey and clover ,1, 2, 3 (Dargaud, KANA)
そして、その羽海野チカの出世作『ハチミツとクローバー』の仏語版。あれだけネームの多いコマを、頑張って訳してます。もちろん、巻末付録も。しかし、「ガビーン」とか、オノマトペなど、日本語を残しつゝ、訳を添へてある部分多し。タイトルは英語版からスルーか?
★ 2007.08.12(Dim)06:31
3月のライオン
「三月のライオン」といへば、矢崎仁司監督による1991年の作にして、記憶喪失の兄を愛するあまり、その恋人と偽って兄の面倒をみる妹のハナシ。テーマ曲として使はれてゐるフォルクローレ「太陽の乙女」も切ない小生イチオシの邦画のひとつである。 ところが、白泉社の隔週刊誌『ヤングアニマル』てふ「ちょいエロ漫画誌」――話題の若杉公徳『デトロイト・メタル・シティ』(=DMC)も連載されてゐる――で連載開始された――現在3回目掲載誌が発売中――羽海野チカ の新作が『3月のライオン』――「三」がアラビア数字に!――。しかしながら、こちらは、先崎八段監修つきの将棋漫画――『ハチクロ』連載終盤には、対局の取材とかしてたらしい。しかも、準備は数年前から ださうだ――で、主人公は、17歳にしてすでに五段の桐山零少年――羽海野チカの趣味により、やはり眼鏡男子――と、映画とは全然ちがふオハナシ。ストーリーは、やはりこの男の子の成長物語のやうではあるが、扉には「優しさあふれるラブ・ストーリー」と書かれてゐる。現在、主人公のご近所さん――東京は月島らしい――の三姉妹の長女――ハチクロのあゆ風、童顔巨乳だ――が気になる存在であるが、もちろん、これから様々ご登場になるに相違ない。ちなみに、扉の絵が、毎号続き物になってゐるぞ。 さて、映画にも漫画にも March comes in like a lion. てふ英語がサブでつけられてをり、タイトルの由来が知れるのだが、これは元来、If March comes in like a lion, and goes out like a lamb.(弥生は獅子のごとく訪れるとても、子羊のごとく去る=最初は荒々しいが、後には穏やかになる。if の無いヴァージョンもあり)てふ気候を示す諺らしい。ところが、これに対応するフランス語の諺は Quand février commence en lion, il finit comme un mouton.(如月は獅子のごとく始まるとても、子羊のごとく終はる。quand が si のヴァージョンもあり)で、なぜか「2月のライオン」になっちまふのであった。大陸とブリテン島との気候の差によるのであらうか?
★ 2007.08.12(Dim)06:31
初稽古
恒例、浪花グランドロマン のテント芝居。今回、小生はゆゑあって、稽古にはちょびっとしかゆけなくて、稽古開始後、すでに1ト月あまりが経ってゐるが、昨日が初稽古であった。 からみ相手の本多さんとは、阿吽の呼吸で稽古をこなすものゝ、名古屋出張以来悩まされてゐるギックリ腰風の腰痛ゆゑ、キレはいまいちであった。台詞の入りはまあまあだが、相方とのやりとりをしてなかったので、直ぐに出てこなかったりする点、例によって「現場」の重要性を感ずる。ちなみにこのシーン、昨日は2回やったけど、通し稽古までもう稽古しないさうだ。 あ、ちなみに、本番は9/19-23、場所は例年どほり扇町公園ですよって。DMは今月下旬に発送予定。
★ 2007.08.10(Ven)06:43
外国語教育メディア学会全国研究大会2007
火曜から始まってゐた学会、最終日の午前中の部での司会をすべく、朝一で名古屋学院大学へ。この学会は発表20分で質疑応答10分で、その10分間をうまくこなすのが司会のメイン役割となる。 昼休みに、フランス語のO先生やK先生に会ふ。学会員ではないさうで、ゲストで呼ばれた由。 午後はヴィゴツキーのシンポ会場へ。「協働」がテーマの大会だったからであるが、その辺の具体例が少なかったのが残念。
★ 2007.08.10(Ven)01:41
オープンキャンパス2007
8/7-8は、恒例となったオープンキャンパス、今年はふだんのフランス言語文化コースの準備以外に、教育促進支援機構の新企画「しゃべり場」――来場者たちと先輩の交流会。当初希望してゐた教室にあきがなく、ロビーになったのが幸ひしたか、のべ250名ほどが来場。心理の200人を抜いてトップの来場者数となった。谷研究科長も飛び入りで参加してたし――開催やら、『文学部案内 』の別冊『ええもん』配布やらがあり、とりわけ気を揉んだ2日間であったが、予想外の繁盛、反響のうちに終へられ、一安心。学生スタッフは期待をはるかに上まはる活躍ぶりであった。びやん・じゅえ!! さうして、楽日に設定した支援機構全体の前期打上@紀月、添田先生のラヴ・コールやら、Tくんのラヴ告白やら逆告白やら、ラヴに満ちた会は蜿蜒5時間半に及んだのであった。とりあへず、たずさはっていただいた学生・先生・事務のみなさんに大感謝。(しゃべり場風景)
★ 2007.08.06(Lun)04:37
広島原爆忌
昨年 は原民喜のハナシであったが、今年は、ラーダービノード・パール。インドを代表して東京裁判の判事団に加はり、厳密な国際法の解釈にもとづいて、起訴じたいが不能であるか証拠不十分として――もちろん、パールは、日本の戦争自体については厳しい批判をくだし、まったく容認してゐない――、全員に「無罪」を主張したベンガル人である。 ガンディーを尊敬し、絶対平和と世界連邦を説いた彼は、二度目に来日したさい、広島の原爆慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください 過ちは 繰返しませぬから」の意味を知って、主語を「日本人」と解釈し、「(原爆を)落としたものの手はまだ清められていない」と批判した。東京裁判の意見書において、欧米列強の帝国主義を痛烈に批判したパールは、戦後、対米追従再軍備路線にはしる日本と、それを主導するアメリカを非難したのである。 この碑文批判はマスコミの大々的に報道するところとなり、碑文の起草者である雑賀忠義――当時、広島大学教授――は、主語は「世界市民」であるとして抗議文を送るにいたった。しかし、すでに非難発言の翌日、濱井信三・広島市長から碑文の説明を受けて、一応の納得を示してゐる。しかし、それでも、強い者の云ひなりになったのでは、いつまでも平和は来ないと発言したやうだ――現在、慰霊碑には、主語についての説明が付けられてゐるが、にも拘らず、いまだ「日本人」ととって、「自虐的」と論ずるスカタンがゐるさうな。難儀なことではある――。 このパールについての本が、中島岳志さん によって上梓 された。これについては、またいづれ。
★ 2007.08.01(Mer)05:05
菅野文『オトメン(乙男)』1, 2(白泉社 花とゆめCOMICS)
『オトメン(乙男) 1 (1) 』『オトメン(乙男) 2 (2) 』 全国一の腕前をもつ剣道部主将にして、柔道初段、空手二段、イケメンにして成績優秀、母親は大企業――マサムネインターナショナルって大企業やないのか? 学園理事長との記述もあるが、どんな企業なんや??――のトップと、完璧男の正宗飛鳥くん。だが、彼には人に云へないもうひとつの姿が。それは、ファンシー・キューティーなものラヴで、手藝・料理・裁縫等にも完璧な「ヲトメ」の姿であった。そんな飛鳥くんが、手藝・料理をまったく不得手とするも、格闘技には秀で、正義感ある凛々しい美少女転校生・都塚りょうちゃんに恋してしまったことから、諸々の変化が……てふオハナシ。小ネタ――りょうちゃんに誘はれて観にいった映画が『男達のKAKATO』、絵柄は『空手バカ一代』のつのだじろう風とか――もオモロイが、いやー、いーねー、ヲトメン――小生もヌヒグルミは大好きで、作るのも好きだが――の飛鳥ちゃん! クールな顔立ちで少女漫画にときめく姿とか。 しかし、飛鳥ちゃん以上にヲトメな女の子はゐない、と、飛鳥ウォッチャにしてタラシの――そして彼も亦、別の顔をもつ――橘充太くんをして云はしめるほどの正宗くんであるが、剣道に秀でてクールな姿は、べつに「偽り」の姿ではなく、それも彼の人格のひとつに違ひない。ようするに、彼の「ヲトメ心」は、ファンシー・キューティーなものにたいするときや、服のほころびを見たとき、恋する彼女を喜ばせたいときに発動するのであって、剣道部における「凛々しさ」とおなじく「関係的」なものなのだ。そしてこのことは、人間裡に「固定的人格」を想定する「本質主義」が誤りであることの一例なのである。 ちなみに、第1巻の表紙絵であるが、この姿の、ヲトメ心が発動してるときのイメージが、表紙折り返し部分に載ってゐるのが笑へる。
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