三島由紀夫の「日曜日」

By 黒猫亭主人, 2010/11/25

ことしコトエが卒論であつかってゐる――三島にたいする仏文学の影響――三島由紀夫の自決は、1970年11月25日。すなはち、けふが、丁度40年目てふことになる。

小学生のときには、もっぱら恐龍だの日本史だのにしか興味がなかった小生――小学校の図書室で、子供向けリライト版の世界文学全集を読んだことはあるが、カケラも面白くなかった――が、中学校にはひって、にはかに目覚めたのが「ブンガク」であった。とりあへず、実家にあった創元社版の『人間失格』と『假面の告白』にはまり――そのはまり方は、オシャレにこだはる中坊の如きであった。ちなみに、三島は太宰にむかって、あなたの文学は嫌ひなんですと云ふたさうだが――、現代国語の授業中に、教科書に掲載されてゐるモノガタリに感銘をおぼえずと答へ、ならばどんな作品なら感銘をおぼえるのかと問はれた小生は、『人間失格』と答へたものであった。我ながら、じつにイヤな中1ではあるまいか。当時の周囲のみなさま、すんまへんすんまへん。f(^ー^;

さりながら、「親友交歓」とか「御伽草子」とかにはいまだに感銘をおぼえるのであり、サン・セバスチャンの殉教の絵を見ては、「自涜」の後ろ暗い快楽(けらく)をいまだに想起するほどには、身体に浸透してゐることを認めざるをえまい――ちなみに、小生、中に2で安部公房にハマり、中3では堀辰雄にハマるのだが――。

そんな三島作品のなかで、忘れがたいのは「日曜日」てふ初期――初出は1950年、三島25歳のときの作である――の作品だ。これは大蔵省勤務の若い男女の爽やかな交際ぶりを描く短篇で、爽やかな青春小説かと思ひきや、最後にふたりは電車のホームから落ちて、爽やかに轢死しちゃふのである。ラストは、同僚のことばでしめくゝられるのだが、この台詞を知りたい方は、新潮文庫の『ラディゲの死 』をお読みいたゞきたい。

ちなみに、三島じしん、大蔵省に勤めてゐたさい、文筆活動との両立の過労のあまり渋谷駅のホームから転落して死にかけたさうで、体験にもとづいてゐたやうなのだが、のちに自衛隊市ヶ谷駐屯地で首チョンパな姿になり、はからずもこの短篇の主人公たちに倣ふラストをむかへたのであった。

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2 Comments

  1. ま・ここっと より:

    そのチヨンパ首が現在も某大学医学部に保存されているといふ言ひ伝ゑを漏れ聞いておりまする。

  2. 黒猫亭主人 より:

    三島と森田必勝を検死したのは慶応大の法医学教室らしいけど、そりゃ慶応ってことですかね?? ちなみに、ふたりとも死因は頸部離断。つまり、割腹ぢゃ死ねなかったと。