本日も快晴。午前中に Cergy 1 と Cergy 2 にわかれて授業したのち、午後からは自由行動てふ、ゴージャスな日である。
午前中の授業は、Cergy 2 のに出席。講師はミュリエル先生で、きのふ行った移民歴史館のことをネタにしてゐた。
配布ずみのプリントをつかひながら、移民にとって、フランスは douce France かと問ふ。この douce France とは中世からある決まり文句で、「甘(うま)し国フランス」てふ定訳ももつ表現であるが、学生たちにはいささか難しかったやうで、みなポカンとしてゐる。
そして、この Douce France とは、大御所歌手であった Charles Trenet シャルル・トレネが、第二次大戦初頭の1941年に作った「愛国ソング」のタイトルでもあり、こっちの方は「優しきフランス」と訳されてゐる。
この曲を、1986年にアルジェリア風歌唱でうたったのが、のちにハレド、フォデルらと1, 2, 3, Solei アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ(1, 2, 3, 太陽)てふライ――まあ、謂はゞアルジェリア演歌――のユニットをつくることになる Racid Taha ラシッド・タハが、1980年にリヨンでたちあげたグループであった。その名も Carte de séjour カルト・ド・セジュール、すなはち「滞在許可証」。これがなければ、フランスに長期滞在することはできず、移民たちにとってもっとも必要にもかかはらず、なかなかあたへられにくいものでもある。
ミリュエル先生が教室でながしたのは、このカルト・ド・セジュールの Douce France であった。いふまでもなく、この文脈における Douce France は対独愛国ソングではなく、移民系にに「優しくない」フランスへのプロテスト・ソングにほかならない。
ミュリエル先生に頼まれて日本語で解説をしたものゝ、這般の消息は、市大の2回生にもわかりにくかったやうである。いやはや。
ちなみに、TAのワファのご両親はアルジェリアの出身ださうで、彼女はアルジェリア系2世であった。でも、Raï については、もうフランスでは流行ってないてふことで、ミリュエル先生とも意見の一致をみてゐた。なるほど。
午後は、ともひろとゆみこがクリュニー中世美術館へゆきたいてふので、同道。現在、有名なる「一角獣と貴婦人」のタペストリーは、大阪へ出張中であるが、それを補ってあまりある物量に、たっぷり2時間もついやしたわれわれであった。
クリュニーを出でて、サン・ジャックから、例の鍵でいっぱいのアルシェヴェシェ橋をとほり、サン・ルイへ上陸。かつての小生の住んでたアパルトマンをみせ、1階のお店で、またもアブデル氏に再会し、サン・ルイ・アン・リール教会をへて、マリー橋からマレをめざす。
サンス館の中庭を経由して、シャルル・マーニュ高校のグラウンドの城壁をながめ、サン・ポール村から、サン・ポール教会よこの路地をぬけて、サン・タントワーヌ通りへ。そこから、ヴォージュ広場で、散策終了。バール通りやフランソワ・ミロン通りもとほりたかったが、断念。
ともひろがポンピドゥーへゆきたいてふので、広場で休むこともなく、29番のバスでボーブールへむかひ、下車して、ガスパールとリサのリサのお家がある――てふ設定――ポンピドゥー・センターへ。
特別展はロイ・リキテンシュタイン展。かつてポップ・アート大好き少年だった時代に、贔屓のひとりであったが、いまとなっては、そんなに贔屓でもないものの、充分に堪能。
この時点ですでに1時間たってゐたが、常設展もぜんぶみて、18hに入館したのが、すでに閉館の21hまへであった。
うまいぐあいに、夜間工事のためにセルジー・ル・オーへの直通がなくなり、バスで帰還せねばならなくなる直前の時間で、めでたく電車で帰還。とはいへ、立ってる時間のながさに比例して、疲労も相当なものではあった。