vingt ans

By 黒猫亭主人, 2017/02/09

Internet なるものが大学に導入されるらしいといふので、事前に、勉強のため、個人でプロバイダと契約し、電話回線でつなぐやうになった。やがて、大学も「ホームページ」をもち、各学部も「ホームページ」をつくらねばならなくなったため、ぼくが仮に作成してゐたwebページがそのまま採用されることとなり、大阪市立大学文学部の公式サイトは1996年10月14日にオープンする。その流れから、当初10年ほどは、ぼくがweb masterを務めてゐた。みんな電話回線にモデムをつなげ、ピーゴロゴロとつないでゐた時代である。画像をつかはず、それでゐてオシャレな軽量サイトにしあげることに、知恵をしぼった。同時に、各教室のサイトもオープンするやうにお達しがあったが、文学部のサイト・オープンに間に合ったのは、ぼくの所属する仏文のサイトと、webを所轄する情報処理委員会の当時の委員長である山口先生の中文のサイトだけで、のこりの教室のサイトが出そろふのは、ずいぶん後のことである。このとき、仏文のサイトに、ぼく個人のサイトもぶらさげることとしたが、個人サイトは、年度末にはひった1997年2月7日にオープンしてゐた。つまり、このサイトは、先日の火曜で、20周年といふことになる。

さいしょにつくったページがどんなものだったかは、データが残ってゐないのでわからないが、9ヶ月後と1年後のデータが残ってゐる。こんなものだったらしい。

当時の教室名が、1997年は「フランス語フランス文学」で、1998年には「フランス・ロシア言語文化」になってゐるのがわかる。「フランス・ロシア」になってゐるのは、「藝露朝」とよばれてゐた、教室をもたない先生たちを、すべてどこかの教室所属にせよとの方針が決定されたけっか、ロシア語の左近先生と浅岡先生が一時期所属してゐたからであるが、2年後の1999年には左近先生が定年になり、ロシア語の専任がひとりになると、浅岡先生は表現文化に所属変更となって、ロシア成分の消えた教室は、名前も「フランス言語文化教室」となった。その後、学生数のすくなさを理由に独文とくっつけられて、「ドイツ語フランス語圏言語文化学教室」となって今にいたる。名前がながいとよくいはれるが、「ヨーロッパ言語文化学」のやうにして、「ドイツ」「フランス」といふ名称が外部から見えなくなることに抗ったけっかである。かつて「フランス・ロシア」としたのも、同じ理由からであった。あのとき、藝術学の関先生は史学教室の西洋史にうつり、朝鮮語の野崎先生は中文に所属となったが、どちらの教室も、藝朝を看板に出すことはなかった。

大阪市立大学を去られた左近先生は、2002年に急逝された。奥さまとともに旅立たれたその顛末は、いまだに不明だが、その日はぼくの誕生日で、おほいに駭いたものだ。それからも、もう15年が経ってゐる。左近先生には、拙い論文を、そのPCファイルからの着想の点から頗る誉めていただいたりしたものだが、あたらしもの好きの左近先生は、ネットも使ひこなしてご自分のサイトもつくってゐた。ロシア学の書籍をたくさん出してゐる成文社のサイトに左近先生の文章が残ってゐるが、ここにも出てくる「アムール虎」を絶滅からすくはうといふのが、左近先生のサイトのスローガンだった。あの世でも、先生は、アムール虎の現状にやきもきしていらっしゃるのかしらん?

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One Comment

  1. 古賀哲男 より:

    福島先生

    20年間、市大文学部、いろいろありましたけど、まだまだ、これからも無理をせず、末長く付き合いのほど、よろしくお願いいたします(当方の貢献度はほぼゼロに等しいですがー情報処理委員長として関わった間に研究科のPWファイルを誤って変な風に更新してしまい、オロオロしていたら、サーバの自動更新で翌朝には元に戻っていて安堵したことを今でも思い出します[50周年行事で総動員されたことも!])。

    古賀哲男