巴里便り

L'Ile Saint-Louis 篇

(2000/08/13-08/15)


2000/08/13
 取り敢へず『ふらんす』の原稿仕上がりたれば、暫しの開放感味は ゝんと、サン・トゥーアンの蚤の市裡にある巨大古書店に向かふ。因みに、この巴北なる地名、Saint-Ouen と書けど、發音は [sε~tuε~] にて、[sε~tuα~] に非ず。我等同僚 L 先生の故クなる Gascogne(ガスコーニュ)地方は Garonne(ガロンヌ)川流域の街 Agen(アジャン)式に en を開いた鼻母音にて發音せるなり(即ち [agε~])。更に贅言すれば、「ガスコーニュ人(gascon ガスコン)は嘘吐きだ」てふは定番のイメージにて、「ガスコーニュ人式に (en gascon) 切り拔ける」とは、騙して逃げるてふ意味なり。
朝のノートルダム 20 時半の空 III
朝のノートルダム トップの「蟻と蝉」の插し繪は、小林古徑や奧村土牛の師匠・梶田半古 (1870-1917) 表紙も梶田半古
『子供ふたりの萬博散歩』 ずっこけてお尻擦り剥きっ子 飛ぶやうに驅けっ子
『子供ふたりの萬博散歩』 ずっこけてお尻擦り剥きっ子 飛ぶやうに驅けっ子
梯子登りっ子 梯子登りっ子 II 逆登りっ子
梯子登りっ子 梯子登りっ子 II 誰かゞ必ずやる、滑り臺逆登り。これは 4 兄妹。この後、上の兄貴が滑り落ちて、下の妹の脚の上に落ち、妹泣き喚き、兄貴は親父にビンタ張らるゝことに
待ち構へっ子 お尻拂ひっ子 夕方の公園
下で待ってゝ、下りてきた子に挨拶っ子 お尻拂ひっ子 陽射しの傾ける(と云ふても 19 時過ぎ)の公園。赤い屋根は古書市會場。元馬市場
20 時半の空 I 20 時半の空 II 20 時半の空 III
サン・ルイ橋上から。20 時半の空
 南佛人の嘘吐きとくれば、かの Alphonse DAUDET (アルフォンス・ドーデ 1840-1897)が Les Aventures prodigieuse de Tartarin de Tarascon [レ・ザヴァンテュール・プロディジューズ・ド・タルタラン・ド・タラスコン](タルタラン・ド・タラスコンの大冒險)の主人公、タルタラン・ド・タラスコンが直ちに想ひ起こさるも、ドーデはもう少し東方なる Nîme (ニーム)の産。尚、ガスコーニュ人とて最も高名なるは恐らく Savinien de CYRANO DE BERGERAC (サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラック 1619-1655)ならんが、實は彼はパリ近郊生まれにて、南佛人に非ず。慥かに、アジャンの北方にベルジュラックてふ街はあれど、彼をネタに芝居を書ける Édmond ROSTAND (エドモン・ロスタン 1868-1918)のせゐならん(ロスタンはマルセイユ生まれの、つまり phocéen フォセアン なり)。尚、このロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』に出てくる「これ、ガスコンの青年隊」てふ文章を引きて椿實の小説を褒めたるが、誤植にて「これが、スコンの青年隊」とされちまひしは柴田練三郎。このネタは、柴練の三田(慶應大學)の後輩・安岡章太郎のエッセイ集『良友・悪友』にて用ゐられたり。又、モダン風味の小説を書いてゐた椿は、その後作家の道を斷念、家業を繼ぎたりしが、後年『椿實作品集』全一巻の刊行されぬ。實は、小生も持てるこの本の中に柴田練三郎のかの文章の再録されてあれど、誤植訂正されたらず、相變はらず「スコン的」のまゝなるには笑ひぬ。編集者は『良友・悪友』を讀まざりけるか。
 もとい。扨、そのサン・トゥーアンの古書肆は、古びた建物の一階部を占有せるが、チラシに依れば、書棚の總延長 1km の由、成る程なかなかに巨大な店なり。小生、同僚たる觀光人類學者 H 先生のお土産とて、パリの遊園地、萬博がらみの圖版本を探せしあれど、なかなか見出し得ず。この古書肆も奧に「パリ・コーナー」を持ちたるが、結局見付からず。されど、1889 年、例のエッフェル塔の建てられたるフランス革命 100 周年記念萬博の會場を、兄妹が見聞し、田舎の知り合ひに傳へるてふ形式の案内本 Promenades de deux enfants à l'exposition (プロムナード・ド・ドゥー・ザンファン・ア・レクスポズィスィオン 子供ふたりの萬博散歩)(Eudoxie DUPUIS ユードクスィ・デュピュイ, 1890) を購ふ。中の插し繪に Jonque chinoise (ジョンク・シノワーズ 中國のジャンク船)てふ繪あれど、どう見ても家紋の付いた日本の帆船てふも抔あり。
 序でてふことで、メトロ 12 番線に乘り、一路南へ。ポルト・ド・ヴァンヴで降り、例に依りて、ブラサンスの古書市へ行く。ヴァカンス中のこととて、古書肆の屋臺も半分近くに減りてあり。
 冷やかすだけ心算なりしが、つい、古文法書と、明治 27 年 (1894)、Pierre BARBOUTAU (ピエール・バルブトー)てふフランス人が日本に來て日本畫家に插し繪を描かせしシリーズの Jean de LA FONTAINE (ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ 1621-1695)『寓話』 (Les Fables(レ・ファーブル)) を買ふ。これ、上製本は 350 部の限定本なれば、フランス國立圖書館京都外大抔も所有せるが、小生のは普及版なれば、然程の價値は無からん。
 その後は、これ亦例に依りて、鄰の公園にて讀書。


2000/08/14
 紀要論文に向けてあれこれ考へねばならず、實際あれこれ考へてもをりしが、一向に進まず。買ひモノにのみ外出。
 モベール・ミュチュアリテのアジア食材店にて買ひ出しの後、不圖、スィテ島の最東端なる Square de l'Île de France (スクワール・ド・リル・ド・フランス イル・ド・フランス公園)に立ち寄る。この島の先端部地下には第 2 次世界大戰中に強制收容所に送られたる人々の追悼記念館あり。階段を下りてゆけば、細い割れ目の如き入り口あり。中に入れば、強制收容所の部屋の再現されてありて、壁には諸々の文句書かれたり。
モンテベッロ河岸通り アルシュヴェシェ橋南詰め イル・ド・フランス公園
舗裝改修中の Quai de Montebello (モンテベッロ河岸通り)。アスファルトの下には、ちゃんと石疊殘りたり こちらも、下から石疊。Archevêché (アルシュヴェシェ)橋南詰め イル・ド・フランス公園。奧が追悼記念碑。追悼記念室はこの地下


2000/8/15
 例に依りて、A 孃より夕飯のお誘ひあり、彼女贔屓の 10 區は Passage Brady (パッサージュ・ブラディ)に行きてカレーを喰ふ。こゝは、19 世紀末に作られたるパッサージュの一つにて、その鄙びた樣子と、ケバケバの飾り具合がエキゾチックなインド人街なり。理髪店なぞ、40F と、恐ろしく安し。尚、『地球の歩き方』パリ&イル・ド・フランス篇にては「ペルシャ語の看板も多く、ここはまさにイラン人のコミュニティの場となっている」と書かれたるが、ペルシャ文字とデーヴァナーガリー文字を取り違へたるか?
パッサージュ・ブラディ入り口 鄰のテーブル ずらりと竝びたるテーブル サン・ルイ橋上の手囘しオルゴール
パッサージュ・ブラディ入り口。看板にはパキスタン・インドの料理店・理髪店・食料品店と書かれたり 眞のインド・カレーに滿ちたり 狹いパッサージュの兩側にテーブルが サン・ルイ橋上の手囘しオルゴール師。囘させて貰ひたる子供
 扨、葉月 15 日と云へば、日本にては高校球兒の黙祷で高名なる敗戰記念日なるが、こちら西洋にては Assomption (アソンプスィオン 聖母被昇天祭)にて、カトリック國フランス、休日の一つとせり。これは、死後も腐ることのなかりける遺體が天に召されたる日にて、キリストの「昇天」と區別せるため「被昇天」と譯さるが普通。福音書そのものには記述の少なかりける「聖母」は、時代と共に巷の人氣を得、民間説話抔多く流布せるが、これを神學的に位置付けたるが、1950 年に教義決定宣言なされたる新しき祝日なり。
 こゝフランスは、カトリック國たることもさることながら、殊に聖母を愛づる國にて、大抵の街には Notre-Dame (ノートル・ダーム 我等が婦人)、即ちマリア樣を祭りたるお寺あり。
 この Maria (佛語にては Marie)、語源はヘブライ語 miryâm 若しくはアラム語の maryâm にて、「豐滿な女=美女」の意らし。古代の大地母神信仰殘りたるか、單に神に認められるのは美女で莫(な)くんばならざりけるか。






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