巴里便り

L'Ile Saint-Louis 篇

(2000/08/03-)


2000/08/03
モダンな住宅 ロリヨン通り ランポノー通り 虹
Rue l'Orillon (ロリヨン通り)のモダン・デザイン住宅 ロリヨン通り Rue Ramponeau (ランポノー通り)を登ってくると、ベルヴィル公園 ベルヴィル公園の虹
21 時のベルヴィル公園 逆光のパリ 夕立後のベルヴィル公園 虹と若者達
21 時のベルヴィル公園 逆光のパリ 夕立後のベルヴィル公園 虹と兄ちゃん達
エッフェル塔とモンパルナス・タワー 三毛猫さん アルフォンス・アレー廣場の子供達
夕暮れのエッフェル塔とモンパルナス・タワー ベルヴィル公園の三毛猫 アルフォンス・アレー (1854-1905) は有名なユーモア(?)作家
 11 區は、Rue Trois Bornes (トロワ・ボルヌ[三ツ標(しるべ)]通り)の東端なる Théâtre des 3 Bornes (トロワ・ボルヌ劇場)に芝居を觀に行く。2 本觀る心算(つもり)なりしが、1 本目は既に滿席(complet コンプレ)、22 時までヒマを潰し、2 本目のみ觀れり。
 劇場に入りてみれば、滿席になるも當然の、キャパ (3+6)*4 列=36 席てふ極小劇場にて、小屋自體も 2.5 間×3 間、舞臺は間口 2.5 間×奧行き 1 間、タッパは 2500mm 程なり。扉を開ければ其處は客席、扉の横に受け付け、その横に音響・照明操作セットありて、小屋のスタッフの兄ちゃん、受付兼音響・照明スタッフとして付きゐたり。然し、西歐には「棧敷席」てふ概念は未だに生まれざるか。
 作品は 30 ans... Victoire ! (トラン・タン……ヴィクトワール! 30 歳……萬歳/ヴィクトワール!)(作・Sébastien Deporte セバスティヤン・ドポルト/演出・Jean-Paul Bazziconi ジャン=ポール・バッツィコニ)、これも亦、Marie-Aline Thomassin (マリ=アリーヌ・トマサン)の一人芝居なり。
 30 歳の誕生日を一人で過ごせるヴィクトワール、過去の戀人達をスライドで鑑賞せるところより始まる。以後、觀客に話し掛けたり、時間を訊いたりてふ、ありがちな一人芝居のスタイルにて進行(Happy birthday to you フランス語では Bonanniversaire ボンナーニヴェルセールを客に歌はしめたり)。彼女の云ふには、前カレ (ex)Basile (バズィル)はホモにて、新しい男を作りて、彼女を振りたり。が、彼女はホモ(しかもマッチョな)が好きなれば、常に報はれず。所へ、兩親やら友人やらから電話掛かり、お誕生日おめでたうと云はるゝも、誰も部屋には來ず(彼女、最初からは出ず、留守電に吹き込む聲を聞きて、相手を選び出たり)。その後、雜誌の星占ひコーナーを見て、今日、牡牛座の男がドアを叩くてふことを知り(これ、伏線)、周章てゝ着替へ、男が來たら食事をして、ダンスをして云々と妄想に耽り、キング・コングの着ぐるみ着たまゝ美容サロンの仕事に行きたるハナシやら、去年の誕生日パーティーの寫眞やらを開陳せる後、アドレス帳を見て、誰か知人に牡牛座のありやなしやを確認するも、イキナリ A のところで、バズィルを彼女から奪ひし男 Antoine (アントワーヌ……だったか、記憶に自信なし)が牡牛座なることを想ひ出し、イヤな感じに。その後、B はバズィル、C は去年會ひたる conard (コナール 莫迦野郎)、以下兩親、女友達、自分、でお終ひ。更に、携帶電話のメモリを見るも、4 人のみ。實に友達の少ないことのみ分明(ぶんみょう)となりぬ。
トロワ・ボルヌ劇場 仕込み替へ中 オペ席兼受付 スライド
トロワ・ボルヌ劇場 劇場入り口から仕込み替へ中の舞臺を覗く、てふか、覗けちまふ オペ席兼受付。青い箱は手提げ金庫 昔の男達を眺めてはコメントするヴィクトワール
電話 ドレスアップ 端書チラシ
誕生日おめでたうの電話 セクシーな衣裳に着替へたヴィクトワール チラシは矢っ張り端書兼用
 が然し、常にガハヽと笑ひ飛ばす彼女、ドアを開けて、外に向かひて「ワタシは準備できてるぞーっ」と喚いたり、別の話をしたり、最初の頃よりチョビチョビ呑みたるワイン(3 種類の赤ワインのチャンポン)、逐には喇叭呑み、軈て醉っ拂ひ、椅子よりズッコケ、不意に、ワタシには誕生日を共に祝ってくれる人もをらず、心から慰めてくれる友達もゐない、と落ち込む。ト、電話。留守電に吹き込まる聲は、アントワーヌ。誕生日おめでたう、バズィルとのことはとっても惡かったけど、彼は素敵な男で、それは、ヴィクトワールと付き合ってたからで、キミはとっても素敵な女性だと思ふ云々。電話切れて後、徐ろに動き出せる彼女、電話を取りて、Francetélécom (フランステレコム=日本の NTT の如きもの)の番號案内にかけ、アントワーヌの電話番號を尋ねたりけり。
 一人暮らしの 30 女、淋しさからアルコール中毒寸前と、「ありがち」を竝べつゝ、最後にてカタルシス。まあ、これも王道の一つなれども、こぢんまりとせる空間と相俟ちて、ナカナカ良い芝居なりき。勿論、些か太めのマリ=アリーヌ・トマサンの芝居も良し。但し、1 本目と異なり、觀客は 13 人。70 分。


2000/08/04
1940/06 ドイツ、フランスを占領
1940/06/10 フランス政府、パリからボルドーへ
1940/06/14 ドイツ軍、パリ占領
1940/06/16 ペタン、首相に
1940/06/22 ペタン首相、降伏條約に調印
1940/07/10 國民議會の投票 (569 vs 80)により、第 3 共和政廢止、ペタン、國家主席に就任
1942/11 連合軍、北アフリカ上陸。ドイツ、占領地をフランス全土に擴大、ヴィシー政府、實質上の消滅
1944/04/20 ドイツ軍撤退に伴ひ、ペタンもドイツへ。ヴィシー政府、名實共に消滅
1944/06/06 連合軍、一年に渉る準備の後、ノルマンディー上陸作戰開始
1944/08/25 パリ解放
 この春よりウチの大學院に入學、研究テーマの關係上、小生が指導教員と成りたる M1 の I 孃、この夏 Vichy (ヴィシー)にて語學研修を受くる豫定なれば、お互ひ未だ見ぬ師弟のツラつき歩きつきを見んとて、彼女がヴィシーに旅立つ前に夕餉を共にす。
 I 孃とその彼氏を伴ひて食事せるはオペラ座の近所なる Bistro Romani (ビストロ・ロマーニ)てふファミレス。我等を日本人と見拔きしウエイトレスのお姉さん、It's OK ? Thank you. を連發したりけるに、最後の支拂ひの段になりて、Vous avez des monnaies ? (ヴ・ザヴェ・デ・モネ? 小錢ありませんか?)とフランス語。釣り錢が「一つもない」ので、65 フランキッチリ出してほしいとの由。然しこの「釣り錢切れ」、フランスにては遭遇せること多し。日本の接客サーヴィス、矢張り世界一かも。
 ところで、彼女の行くヴィシーとは、温泉保養地として知られたる中部の街なるが、何と云ひても、第二次世界大戰中、ナチスに北佛部を占領されパリを追はれしフランスの、1940 年 6 月、當時の首相 Henri Philippe Omer Pétain (アンリ=フィリップ=オメール・ペタン 1856-1951)元帥の下、所謂「ヴィシー對獨協力政府」を置きたることにて有名なり。當時の推移は右の如し。
 何しろ、「民兵」「ドイツ協力青年隊」「ユダヤ人收容所」等の惡名高き政策を取りたるヴィシー政府、1945 年 8 月 15 日の裁判にて、最初こそ解任されしこともありしかど、副首相・首相を務め、實質上の權力を揮ひたる Pierre Laval (ピエール・ラヴァル 1883-1945)は死刑、ペタンも死刑を宣告されしが、高齡のため罪一等を減ぜられ、監禁刑に。今も、ヴィシー政府に關係せる者は「對獨協力者」として斷罪さるなり。


2000/08/06
 ドイツ語の O 先生、この夏休み中、出張にてドイツに滯在せるが、年來の夢てふ Chartres (シャルトル)の名高き大聖堂 (cathédrale カテドラル) を見たいとて、昨日より來佛、小生のアパルトマンの 3 人目の宿泊者とはなれり。
 小生も、この折りにとて、シャルトルへ。モンパルナス驛 19 番線より、TER に乘りて 1 時間一寸、Centre(サントル 中央)地方の端、セーヌ河の支流 Eure (ウール)川流域に古くより開けたる街にして、往年の交通の要衝地シャルトルに到る。意外に觀光客は少なし(とは云ひても、日本人、關西ギャルを始め、矢張りをりたり。他にはドイツ人多し)。
TER 大聖堂 大聖堂入り口 正面薔薇窗
モンパルナス驛 19 番線の TER(特急) シャルトル大聖堂。これ亦有名な非對稱の塔 彫刻されたるは約 4000 人。ピタゴラスなんかもあり 正面(西向き)の薔薇窗(rosase ロザース)と、「シャルトルの青」の三連窗
ゴシック建築 教會内部 舊約の王達 鮮やかな青
天へ向かひて伸びるゴシック建築。13 世紀の中期ゴシック 教會奧を望む 舊約聖書の王達 青が鮮やか
北側薔薇窗 北側薔薇窗付近 南側薔薇窗付近 南側ステンド・グラス
北側薔薇窗 北側薔薇窗を引いて見たところ 南側薔薇窗付近 南側ステンド・グラス
後陣部ステンド・グラス擴大 聖女像と蝋燭 聖母に祈る人々 澤山の蝋燭
後陣部ステンド・グラス擴大 聖女像。前に置かれたるは赤くて丈の低き蝋燭 このお寺は Notre-Dame、即ち聖母マリアのお寺なれば、主祭は當然マリア樣 澤山の蝋燭
南側薔薇窗 北側外壁 正面を仰ぎ見る シャルトル市街
南側薔薇窗。下のマリア樣はガングロの所謂「黒い聖母」 北側外壁。外より見ればこんな感じ 北側の通りより見上げし正面 シャルトル市街
サン・テニャン教會 古さうな入り口付近 教會横手の塔 サン・テニャン教會の後陣
古びた Saint-Aignan (サン・テニャン)教會。創設は 5 世紀 この邊が古い 教會の横ちょに塔あり ウール川の方に向かひて降りてく坂道より、サン・テニャン教會の後陣を仰ぎ見る
坂道の終點 サン・ピエール教會 13 世紀の壁 古い入り口
坂道の終點は、サン・ピエール通り そのサン・ピエール通りの端なるサン・ピエール教會。これ亦 12-13 世紀のゴシック樣式 13 世紀の部分 こゝも古い。教會入り口
倉庫 ウール川から大聖堂を望む シャルトル シャルトル舊市街
自動車修理屋さん(?)の倉庫 ウール川から大聖堂を望む 中央地方なるシャルトル シャルトル舊市街
川の方へ降りる坂道 サン・タンドレ教會 『文體練習』の插し繪練習 古き家
大聖堂の付近は小高くなりたれば、坂道多し ロマネスク樣式のサン・タンドレ教會。今はフリー・スペースに。眞ん中なるは O 先生 クノーの『文體練習』插し繪原畫ブース。本としては Gallimard より豪華判にて出たり。插し繪の方も、イコン風、古代エジプト風、レース編み、浮世繪風抔と凝った「插し繪練習」 舊市街の古き家の門扉の隙間より。何やら古下宿風
犬散歩中のお姉ちゃん 大聖堂北側の通り 新市街 新型特急
大型犬 (molosse モロス)散歩中 大聖堂北側の通り 驛に近い方の新市街 中央地方を走る新型特急。一輌編成
アンリ・エーヌ通りの端 アンリ・エーヌ通りの更地 ハイネ臨終の地 ハイネ舊家
Avenue Mozart (モザール [モーツァルト] 大通り)から伸びるアンリ・エーヌ [ハインリヒ・ハイネ] 通り。流石 16 區、建物嚴めし 然り乍ら、途中は更地に マティニョン通り。ハイネ臨終の地。表示あり。一階はレストラン アムステルダム通り。竣工の年度書かれたれば、ハイネの住みたる家なること明らか
 取りも敢へずカテドラルを目指し、入りてみれば、成る程、光彩玻璃窗(ステンド・グラス)一本槍にて有名なるだけあり、前左右の薔薇窗始め、豪華なるステンド・グラスだらけのお寺さんなり。
 其處を出で、ガイドブックに從ひて、シャルトルの舊市街を散歩。Saint-André (サン・タンドレ)教會内部にてはpataphysique (パタフィズィック)展開催中。「パタフィジック」とは、勿論、1911 年、Alfred Jarry (アルフレッド・ジャリ 1873-1907) の死後出版なる Gestes et opinions du docteur Faustroll, pataphysicien (ジェスト・エ・オピニヨン・デュ・ドクトール・フォストロール:パタフィズィスィヤン フォストロール博士言行録)にて提唱されたるコトバにて、以下に拙譯を掲ぐれば:「超現象(épiphénomène)とは現象に付け加はったものゝことである。
 語源的には ε'`πι(μετα` τα` φυσικα`)と書かれるべきであり、そして實際の綴りは 'pataphysique と語呂合はせ(同音異義語)を避けるべくアポストロフに先立たれるべきパタフィジックとは、メタフィジック(形而上學)に對して、その内にであれ外にであれ、付け加はったものについての科學なのであり、それは丁度メタフィジックがフィジック(形而下學・物理學)の上に展開するのと同じ擴がりを持つのである。そして、超現象とは屡々偶發的であるため、科學は普遍に對してしか存在しないと云はれるにも拘らず、パタフィジックは、とりわけ特殊に對する科學となり、諸々の例外を産み出す諸法則を研究し、宇宙/世界 (univers) に對する付加宇宙を説明することに成る――か、或ひは少なくとも、我々が見得る、そして恐らくは、傳統的な宇宙――諸々の例外、即ち頻繁に起こるにも拘らず、結局は偶發的な、殆んど例外的でない例外でありながら、奇拔さ (singularité) という魅力を備へざる諸事實と相關關係にある傳統的な宇宙――に代はって見るべきはずの宇宙を、野心的に記述することになるであらう。
 定義――パタフィジックとは、自らの持つ潛在性によって記述された諸事物の持つ諸々の特性を、それらの大枠において象徴的に與へるやうに、空想的に解決する科學である (la science des solutions imaginaires)。」(A. Jarry, Gestes et opinions du docteur Faustroll, pataphysicien, Poésie, Gallimard, 1980: 31-32)
 扨、諸々パタフィジックなもの展覽さるゝ中、pataphysicien にして Oulipo (ウリポ=Ouvroir de Littérature Potentielle ウヴロワール・ド・リテラテュール・ポタンスィエル 潛在力文學工房)の一員、小生贔屓のRaymond Queneau (レモン・クノー 1903-1976)の Exercices de style (エグゼルスィス・ド・スティル 文體練習)の、插し繪にて「文體練習」せる版の原畫展示されぬ。シャルトルにてクノーに會はんとは思はざりけり。
 教會を出て大聖堂付近に戻り、立ち寄りたるカフェにて「シャルトルの地ビール」を呑みたるが、矢張り我が舌には馴染まざりけり。
 再び TER に乘りて、モンパルナスに戻り、メトロ 6 番線→9 番線で、Jasmin (ジャスマン)に。O 先生の專門なりける Heinrich Heine (ハインリヒ・ハイネ 1797-1856)の名前付きたる通りを見物せるためなり。
 16 區の改裝中住宅地なりける、固有名と雖(いへど)もフランス語式に記されし Rue Henri Heine (アンリ・エーヌ通り)を見物の後、再びメトロ 9 番にてシャン・ゼリゼの中央なる廣場に。こゝより伸びる Rue Matignon (マティニョン通り)に、ハイネ臨終の地ありたれば、其處をチェック、更に、サン・ラザール驛横の Rue d'Amsterdam (アムステルダム通り)に、ハイネの舊住居を確かめに行くも、この地は會社のオフィスとなりてありき。
 歸宅して深夜のニュース見るに、廣島原爆戰没者慰靈祭流れたり。フランスの一般的感覺は如何なりや。






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