巴里便り

L'Ile Saint-Louis 篇

(2000/02/27-29)


2000/02/27
 さて、一夜明くれば、既にサン・ルイの住人なり。大家會社のIさんに、土日は人で一杯ですよと云はれをりしも、昨日は、實感なし。本日はと思へど、日曜の朝なりしゆゑか、人の數僅かなり。
下の通り 西側 東側 東側
窓から下の通りを見下ろす。向かひの店は洋品店 西側(シテ島側)を望む 東側(セーヌ上流側)を望む お向かひさんのヴェランダ。カーテンを開けてると丸見えなり
 我がアパルトマンの入れる建物は、島を横斷せるメインストリート rue Saint-Louis en l'île (サン・ルイ・アン・リール[島のサン・ルイ]通り)に面せり。メインとは云ひても、道幅5m程にて、眞ん中から兩端に進む一方通行なり。道幅的には、中心を縱斷せる rue des Deux Ponts (ドゥー・ポン[二ツ橋]通り)と、東端に斜めに架かる Pont de Sully (シュリー橋)の方が廣く、バス道にもなりたり。
我が家 ローザン館 ローザン館の扉
三つ星のホテルに挾まれたる我が家。左側がホテル・リュテース ローザン館 内部には華麗なる裝飾あり
増水せるセーヌ シテ島を望む トゥール・ダルジャン
増水せるセーヌ シテ島を望む。ノートル・ダムのお尻が見える 向かひ岸に建つ超高級料理店 Tour d'Argent (トゥール・ダルジャン 銀の塔)
東端 サン・ルイ・アン・リール通り サン・ルイ・アン・リール教會
サン・ルイ・アン・リールとダンジュー河岸の辻 サン・ルイ・アン・リール通り東端 勿論教會もあり。サン・ルイ・アン・リール教會
 建物の1階はアラブ系の人の營める épicier (エピスィエ 食料品店)にて、朝は8時から夜は11時まで、土日も營業、お酒は勿論、洗劑、石鹸、ちり紙から電池、電球、齒ブラシまで揃へたる一種のコンピニなり。仄聞(そくぶん)せるによれば、斯樣なコンピニは到るところにありて、スーパーなどに比して品の値段は高けれど、店のおっちゃんは愛想良く、大抵アラブ系の手になるがゆゑに épicier arabe と稱さるなりとぞ。
 建物の兩側は三つ星のホテルにて、觀光客の數と島のグレードをば思はしむ。片側の名は Lutèce (リュテース)と云ひて、これはパリのガロ・ロマン時代の古名 Lutetia (ルテチア)のフランス語形なり。
 取りも敢へず、島の踏査に出掛く。嘗て Beaudelaire (Charles Baudelaire シャルヽ・ボードレール 1821-67)や Gautier (Théophile Gautier テオフィル・ゴーティエ 1811-72)の住まひ、今 Brigitte Fontaine (ブリジット・フォンテーヌ)や岸惠子の家を持ちたるサン・ルイ島は、その昔は2つの島にて、「牛の目島」(île de l'oeil du boeuf イル・ド・ルイユ・ディ・ブフ)と呼ばれたり。南北200m、東西600m程にて、一周20分ばかりの小さき中の島なるも、勿論「中之島ブルース」には歌はれず。17世紀以來の高級住宅地にて、フランス人にとりては謂はゞ帝塚山か芦屋か代官山てふ響きを持てりといふ。畫廊、骨董など小洒落た店舗の多くあり、流石高級住宅街との感慨もあれど、今風の店舗もありて、これは觀光客向けならん。觀光客の多くはアメリカ人なりてふが、日本人にも根強い人氣を誇り、島の住人もアメリカ人と日本人多しと聞けり。
 取り敢へず一周す。成る程壁の邊りの古さうな建物多し。取り分け、ボードレールやゴーティエの住まひて、ドラッグ・パーティの開かれたる Hôtel de Pimodan (ピモダン館)、 現在は Lauzun (ローザン)館てふ名にて政府の持ち物なれば、古き面影を保ちつゝ、金色などは塗り直されてあり。
サン・ジェルベ−サン・プロテ教會 石疊のバール通り エセイヨン座 ポンピドゥー・センター
左側はサン・ジェルベ−サン・プロテ教會 石疊の rue des Barres (バール[棒]通り) 路地の角なるエセイヨン座 路地から覗くポンピドゥー・センター
ポンピドゥー・センター南側の噴水 サン・ルイ・アン・リール通り西端 日向ぼっこする人々 サン・ルイ・アン・リール教會
ポンピドゥー・センター南側の噴水 サン・ルイ・アン・リール通り西端 オルレアン河岸下(上でも)で日向ぼっこする人々 サン・ルイ橋のたもとにあるパリ市の歴史案内板「サン・ルイ島」
 忽ちのうちに一周せば、そのまゝ Pont Louis Philippe (ポン・ルイ・フィリップ ルイ・フィリップ橋)を渡りて、パリ右岸の中心部へと向かふ。古色蒼然たるお寺さんの後の石疊を通り拔け、適當に歩くうち、先だってF君と芝居を觀たる劇場(こや)「エセイヨン座」の前に出づ。そこから西を見れば、今年の初めより2年ぶりの新裝オープン相成りし Centre Pompidou (ポンピドゥー・センター)、正式には Centre National d'Art et de Culture Georges Pompidou (サントル・ナスィオナル・ダール・エ・ド・キュルチュール・ジョルジュ・ポンピドゥー 國立ジョルジュ・ポンピドゥー藝術文化センター)なり。その南側には些かなる池のありて、原色ポップな造形藝術と黒きメカニカルながらくた風彫刻の、しかも合體せる噴水の水を噴き上げてあり。前者は Niki de Saint Phalle (ニキ・ド・サン=ファル)、後者は Jean Tinguely (ジャン・ティンゲリー)の作品にて、二人のカップルなりしがゆゑに、斯く面妖なる作品は生まれたるなり。
 ぶらぶら歩き囘りて、もう一つのそして大きな方の中の島、いにしへ王宮の置かれたるパリ發祥の地、L'île de la Cité (シテ島)に上陸、Notre-Dame de Paris (パリのノートル・ダム)の北側の道を通りて、Pont Saint Louis (サン・ルイ橋)を渡りて島に戻る。と、午前中は閑散たりし島の通り、人々にて溢れたり。橋の上には大道藝人氏が陣取り、その前に客の陣取り、橋の下の河岸には陽光を細大漏らさず浴びんと犇(ひし)めける人々が陣取り、カフェのテラスには休息中の觀光客が陣取り、序でに其處此處に鳩も陣取りて、まさに大家會社のIさんの豫言せるが如し。サン・ルイ侮り難しとの感を新たにす。


2000/02/28
 月曜なれば、A先生のセミナーに行く。最終囘なり。半期、毎週講義なさるとは驚きにて、小生には到底務まらぬは必定なり。出席者殆んど日本人にて、一度は悉く日本人の囘もありしが、そんな時でも勿論講義も質疑も全てフランス語にて行なはる。スバラシキかな。
 終はりて後、カフェにて駄辧り、散會。


2000/02/29
 オリンピック (Jeux Olympiques ジュー・ゾランピック)の年は閏年なれど、100で割り切れる年は非閏年なるも、400で割り切れる年は矢っ張り閏年。こは閏年を400年で97囘と定めたるがゆゑの措置にて、本日はその400年に一度の閏日なり。  本日は、嘗ての同級生にして、浪花グランドロマンにその人在りと一部に熱狂的ファンを持つT君の來たりて、小生が部屋に宿泊せる日なれば、シャルル・ド・ゴール空港へ迎へに行きぬ。到着時間を1時間程過ぎて、何事ぞと思ひたるうち、T君、いつの間にか小生の横に立てり。先づ日本の離陸の遲れ、次いで荷物の受け取りの遲れ、斯く遲くなりたるらし。
 RER にてパリ中心部に行き、案内(あない)がてら、サン・ルイに向かふ。T君こそ我が家の初のお客なり。
 荷物を置きサン・ミシェルから Odéon (オデオン)邊りを漫(そゞ)ろ歩き、boulevard Saint Germain (サン・ジェルマン大通り)沿ひのと或る店にて夕食を攝るも、美味ならず安價ならず、最惡なりとの感想と共に400年に一度の一日(いちじつ)は終はりゆきぬ。






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