さらば青春

By 黒猫亭主人, 2010/11/02

中学生になってから、深夜ラジオを聞き始めた。ABCのヤングリクエストであったが、23時の放送開始にいたるまでの番組も聞いてゐる。そのなかに、歌手の中山恵美子がDJの「エミ子の長いつきあい」てふ15分番組があった。山野楽器提供のこの番組はTBSの制作であり、当然のことながらTBSでも放送してゐたわけだが、ふとしたことから、このTBSの方――テーマ曲「長いつきあい」のなかのワンフレーズ「けれどまた出逢った街角」の最後が、ABC版では「大阪」に、TBS版では「銀座」となってゐたとおもふ――も聞きはじめたのが、のちに「パックインミュージック」を聞くことのきっかけとなる。

ヤンリクにあきたらなかった小生は、のちにMBSの「真夜中の文珍」――通称「真夜珍」。テーマ曲は中村雅俊「俺たちの旅」――に移行した。いふまでもなく、「まん丸眼鏡にイガグリ頭、働く農協青年は、滝廉太郎こと桂文珍」の番組である。男子学生むけの愉快な番組であったが、残念ながら、1979年3月、小生の中学生活とともに終了する。最終回のラストで、文珍が「チクショー、チクショーとおもひながら生きてきました。世の中みんなチクショーです」ト、鼻をつまらせながら語ったのを憶えてゐる。ちなみに、当時、友人Kとともに、堀江美都子の大ファンであった小生は――アニソン歌手であったが、声優業も開始したばっかり。宝塚ファミリーランドにミニ・ステージを見にいったこともあるぞ――、このあと「ミッチィの独り言倶楽部」も聞いてゐたのだ。

高校生になって、開拓精神と変はったこと嗜好の命ずるまゝ、雑音をかきわけながらTBSの周波数にあはせてみると、なにやら面白さうなラジオをやってゐる。「パック」との出会ひであった。当時は、火曜パック――月曜深夜だが、当時は25時とかいふいひかたはなかったのだ――は林美雄アナウンサー、水曜は西田敏行、木曜は河島英五、金曜は野沢那智&白石冬美、土曜は宮内鎮雄アナウンサーてふ布陣であった。その後のDJの変遷はヰキペのとほりであるが、なかでもハマったのは、林美雄のミドリブタ・パックとナッちゃん・チャコちゃんの金パである。とりわけ、一貫してリスナならの手紙で構成される金パの「お題拝借」には、同世代の息吹に同意するとともに、その文章力やら構成力にたいして、憧憬(しょうけい)と嫉妬に悶えたものだ。

ちょうど1979年4月-1980年1月に放映の「ガンダム」もあり、相方チャコちゃんをはじめ、じしんの薔薇座――この名前は、かつて千秋実たちがやってた劇団名だったので、仁義を切って貰ひうけたらしい――から声優陣を送りだしてゐたナッちゃんは、「俺も出たいなあ、ガヤでいいから」とかいふてゐたが、当時、小生にとっては、アラン・ドロンや宗方コーチなんかの二の線ではなく、三蔵法師やチキチキマシンのナレータやライナスの線のひとであった。そのひとが、その線で手紙を読んでゐる、これはハマらないわけがない。

小生はけっきょくお題拝借を書くことはなかった。一浪のすゑ、東京の大学も受験するつもりだった小生は、もしやパックをノイズなしで聞くことができるかも、てふ期待を抱いたものだが、浪人中の1982年7月、「終はりがなければ始まらない」てふ当時の熊沢元ディレクタのことばとともに、パックは終了してしまったのである。

ナッちゃんの愛聴曲は小椋桂の「さらば青春」で、金パでも流されたことがある。はたして告別式でも流されたりしたのだらうか。2010年10月30日、野沢那智逝去。享年72歳。これで、永遠にナッチャコ・パックが復活することはなくなってしまった。もちろん、小生の青春も。

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