贔屓の作家、小沼丹の文庫本。小沼丹と親しく、後半生はおなじく日常描写派となった庄野潤三も昨年9月に亡くなってしまったが、この『村のエトランジェ』は、作者36歳にして出した最初の本であり、収められてゐるのは「フィクション」ばかりである。舞台となる時空間も現代・日本にとどまらず、1世紀のエルサレム、19世紀のバルセロナにもおよんでをり、ミステリ風の味つけも数篇にみられる。
小生は、基本的に「大寺さんモノ」以降を好むが、小沼丹のフィクションも嫌ひではない。たとへば「白孔雀のゐるホテル」――ト、あへて旧仮名遣ひにするが――は、語り手が学生時代のひと夏を、田舎の湖畔のボロ宿「白樺荘」の管理人バイトをしてすごしたときのオハナシ。ちっとも儲からないにもかかはらず、オーナーのコンさんは、いつか湖畔に白いホテルを建て、そのロビーには白孔雀を飼ふのだと夢を語ってやまない。
白いホテルは迥かに遠かった。それ故にこそ、僕等は直ぐ手の屆く所にあるやうな錯覺に陷った。僕等は醉ひ、ひととき大いに愉しかった。番頭は訊いた。
――それで、いつ頃建ちますか?
僕等はちょいと面喰ひ、それから窗を叩く雨の音を聽きながら考へ込んだ。いつ? しかし、やがては白いホテルが出來上がるだらう。緑に包まれて、そこには秩序と平和があるだらう。再來年か、またその次の年か……。或はもっと先か。しかし、何れは湖畔に僕等の夢が美しい形を取って結晶するだらう。やがて、いつかは……。そして僕等は思った。それは間違の無いことなのだ、と。(p.196)
このラストから想ひおこされるのは、佐藤春夫の『美しい町』である。ひとりの若い富豪が「美しい町」の造営を計画するが、それは――ラストに語られる例外を除いて――夢想に終はる。いづれの作品においても、夢の因果関係はじつは逆であり、「直ぐ手の届」きさうであるがゆゑに「迥(はる)かに遠」くに存在するのだ。そのぼんやりとヴェールをかぶったやうな未来のせつなさに、小生はぐっとくるのである。
ところで、どんどん小沼丹を出してくれる文藝文庫――これで5冊目――だが、せめて旧仮名遣ひにしてくれりゃえゝのに。