マリィ・ンジャイ Marie NDiaye

By 黒猫亭主人, 2009/11/05

11月2日に発表された2009年のゴンクール賞 prix Goncourt ――まあ、フランスの芥川賞みたいなもん。19世紀の作家ゴンクール兄弟 les Goncourt の遺産が基金になってゐる――は、Marie NDiaye [マリィ・ンジャイ] の Trois femmes puissantes [トロワ・ファム・ピュイッサント](たくましき女たち)に決まった。以下、まだあんまり知られてないはず――日本版のヰキペにはすでに項目が存在するが、どうも英語版からの訳?――の経歴を、仏版ヰキペ(2009/11/04/10:01版)の超訳にて紹介してみたりなんかしちゃったりなんかしちゃったりして。

なほ、誤訳はおくとして(汗)、内容的誤りまではチェックしとりまへんさかい、ご注意あれ。

マリィ・ンジャイ(1967年6月4日、ロワレ Loiret 県のピティヴィエ Pithiviers 生まれ)は、フランスの女性作家。とくに、2001年のフェミナ賞 prix Femina および2009年のゴンクール賞受賞で知られる。

父親はセネガル人、母親はフランス人で、ふたりは、1960年代なかばに、イール=ド=フランス地方の学生として出会った。マリィはパリ南方100kmのロワレ県ピティヴィエに生まれたが、こども時代をパリ郊外ですごす。父親は、マリィがわづか1歳のとき、フランスを去ってアフリカに移住。以来、彼女は、父親に3回しかあったことがなく、最後にあったのは20年ほどまへのことだといふ。このため、母親――ボース地方の農家の生まれ――は、理科の教師をしながら、彼女と兄――アメリカ経済史の専門家として知られる社会科学高等研究院 (EHESS = École des hautes études en sciences sociales) 助教授のパップ・ンジャイ Pap Ndiaye ――をひとりで育てた。

12、3歳で執筆をはじめたマリィは、高校3年生の17歳のとき、エディスィヨン・ド・ミニュイ Éditions de Minuit (深夜書房) の創業者ジェローム・ランドン Jérôme Lindon の眼にとまり、最初の著書 『ゆたかな将来については』Quant au riche avenir を刊行する(1985年)。『隔週文学』La Quinzaine littéraire 誌は、1985年、つぎのやうに強調した「彼女はすでに大作家である。彼女は、みずからに属するひとつの形(フォルム)を見いだしたが、それは万人に属する物事を語りうるのだ」。この作品刊行後、彼女はのちに夫となる作家ジャン=イヴ・サンドレー Jean-Yves Cendrey に出会ふ。サンドレーが彼女に読後の手紙を書き、それに彼女が返事をしたことが、そのきっかけであった。さらに彼女は、ローマのヴィラ・メディチ Villa Médicis ――アカデミー・フランセーズがローマに所有してゐる建物――で1年間滞在の政府給費を得てゐる。

22歳のとき、彼女ははじめてアフリカに旅行し、セネガルで父親に再会する。このときの出会ひを、彼女はかうのべてゐる「わたしはなにもしらなかった。ほんたうになにも。じぶんの父親の国にきて、『いや、もちろん、そりゃじぶんとこさ!』とひとりごちるやうな気まづさのなかでの遺伝のやうなものはまったくなかったのだ。ぎゃくに、それはまったきなじみのないもの、とてもべつもの、けれど、魅力的で、いやぢゃないやうな意味でのべつものだった」。

1998年、彼女は、その慎重さをやぶって、人気作家マリィ・ダリューセック Marie Darrieussecq の「パクリ」singerie を告発する手紙をマスコミにおくりつける。ンジャイによれば、ダリューセックは、『リベラシオン』紙がつたへたやうに、2作目の長篇『幽霊の誕生』Naissance des fantômes を書くために、2年前に出されたじぶんの『魔女』La Sorcière からおほいにヒントを得たといふのである。これがきっかけで両作家のあひだには緊張が生ずることになったが、ふたりは、それ以前には、重要な手紙や草稿のやりとりをするあひだがらであった。

2001年には『ロジー・カルプ』Rosie Carpe でフェミナ賞を受賞。第1回目の投票から12票中9票を得ての、早々の決定であった。また、彼女の戯曲『おとうさんはたべなきゃなんない』Papa doit manger は、コメディ・フランセーズのレパートリーにあげられてゐるが、これは、存命する女性劇作家としては、彼女のみの名誉となってゐる。

2009年、彼女はあらたな経験にチャレンジし、クレール・ドニ Claire Denis 監督――『ショコラ』や『パリ、18区、夜。』の監督――の『ホワイト・マテリアル』White Material のシナリオに参加する。これについてンジャイは、ドニはこども時代をカメルーンですごしたから、じぶん以上に「アフリカ的」だと語ってゐる。この映画は、アフリカで、内線のまったゞなか、コーヒー農園を経営するフランス人女性の物語を描く。

2009年には、国立書籍センターのジャン・ガッテーニョ Jean-Gattégno 奨学金を獲得。さらに、『たくましき女たち』Trois femmes puissantes でゴンクール賞を受賞。この作品は、さいしょ1万5000部の印刷であったが、受賞により、10刷をかさねて、トータル発行部数 14万部のベストセラーとなった。

彼女の兄は、アメリカ経済史およびフランスにおける「黒人問題」question noire のすぐれた専門家のひとりとして知られてゐる、社会科学高等研究院助教授のパップ・ンジャイ。夫は作家のジャン=イヴ・サンドレーで、ふたりは2007年にみっつのストーリーからなるオムニバス戯曲『パズル』Puzzle を共作した。彼らのあひだには3人のこどもがゐる。現在、ふたりはベルリン在住であるが、2007年のフランス大統領選でのニコラ・サルコジの勝利が、移住のきっかけとなったらしい。

彼女は、最新作『たくましき女たち』にいたるまで、その豊穣で多彩な作品裡でアフリカを連想させるやうなことがなかった。この最新作におけるアフリカの「起源への回帰」の選択について、いまのところ彼女はほとんど説明してゐないが、じぶんが「バオバブへの道」を再発見したのは、2年来、一家で住んでゐるベルリンにおいてだと明言してゐる。

マリィ・ンジャイは、彼女についておほくのひとびとが語るやうな「混血」métisse とかアフリカ系といふイメージを拒絶してゐる。「それがしめすのは、わたしの姿(イメージ)ぢゃありません。わたしの父は、わたしが1歳のときにアフリカにもどりました。わたしは父と暮らしたことはありません。郊外でおほきくなったし、ボースでヴァカンスをすごす、100%のフランス人なんです。わたしは二重国籍をもち、二重の文化をもってゐると思はれてゐますが、それはまちがってゐます。でも、セネガルで、わたしのことについてアフリカ人だと云はれても、いやぢゃありませんけどね」(2009年9月『パリ・マッチ』Paris-Match 誌のインタヴューにて)。

(めんどくさくなったので、以下略)f(^ー^;

ちなみに、Trois femmes puissantes の冒頭部がテレビ情報誌『テレラマ』Télérama のサイトで読める。

そして、その親記事「もうマジックが作品の秘訣(わざ)ぢゃなくていゝ」Je ne veux plus que la magie soit une ficelle はこちら。兄貴とちがって黒人問題についての発言がすくないがてふ質問についての説明がなされてゐる。彼女曰く、それはじぶんにとって関心事かつ重要事だが、彼女の生きてきた状況が、そのやうな問題となる黒人たちのおかれてゐる状況と異なるのため、迂闊に発言できないのださうだ。さらに、フランス脱出の決定打がサルコジ勝利だったことは、こゝで語られてゐるぞ。

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