cinquante ans

By 黒猫亭主人, 2014/01/04

Tu ne quaesieris, scire nefas, quem mihi, quem tibi
finem di dederint, Leuconoe, nec Babylonios
temptaris numeros. ut melius, quidquid erit, pati.
seu pluris hiemes seu tribuit Iuppiter ultimam,
quae nunc oppositis debilitat pumicibus mare
Tyrrhenum: sapias, vina liques, et spatio brevi
spem longam reseces. dum loquimur, fugerit invida
aetas: carpe diem quam minimum credula postero.
(Carmina I, XI, Quintus Horatius Flaccus, B.-C. 8)

神々がどんな死を僕や君にお与えになるのか、レウコノエ、そんなことを尋ねてはいけない。それを知ることは、神の道に背くことだから。
君はまた、バビュロンの数占いにも手を出してはいけない。死がどのようなものであれ、それを進んで受け入れる方がどんなにかいいだろう。
仮にユピテル様が、これから僕らに何度も冬を迎えさせてくれるにせよ、或いは逆に、立ちはだかる岩をものともせず、テュッレニア海を疲弊させている今年の冬が最後の冬になるにせよ。
だから君には賢明であってほしい。酒を漉(こ)し、短い人生の中で遠大な希望を抱くことは慎もう。
なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも、意地悪な「時」は足早に逃げていってしまうのだから。 今日一日の花を摘みとることだ。
明日が来るなんて、ちっともあてにはできないのだから。
(歌 1-11, クイントゥス・ホラティウス・フラックス[山下太郎 訳], 紀元前8年)

かくして、本日17時40分、ひとつ歳をとった。
ヨハヒ50。半世紀。その瞬間、Twitterにツイートした cinquante とは、さういふことである。

生きるほどに、やりのこしてゐることのおほさに悶える。生きるほどに強欲になってゆく。あれもしたい、これもやりたい。しかし、ゲームセットの日はやってくる。あすにでも。

てなわけで、いのち短し恋ひせよ少女少年、少年少女老いやすく学成りがたし。けふの花をつみたまへ(カルペ・ディエム)。

けれども、たとへあす世を去ったとしても、ぼくといふ存在は、風のなかにとどまってゐるのかもしれない。なぜなら、われわれの「記憶」も「意識」も、個体にとぢこめられたものではなく、周囲のひとびととの相互行為のなかにあるものだからだ。

てふわけで、みなさんに感謝。Merci à tous !

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