かつて認知科学にはまってゐたころ――そのころは、じぶんの研究を「認識言語学」と呼んでゐたりした――、認知心理学や発達心理学は近しい研究分野であったが、それをご専門とされる湯川先生とは、つひにその学問にかんして話をうかがふことはなかった。学部生時代も、心理学の授業で履修したのは、心理学特講がひとつだけ。しかも、非常勤の先生による聴覚心理学の講義であった。だから先月11月15日に68歳目前でなくなられた湯川良三先生との想ひ出は、文学部の同僚としてのいくつかにすぎない。
ひとつはフランス語のこと。1973年に文庫クセジュ『記憶―その心理学的アプローチ』――原著は César Florès の La Mémoire ――といふ飜訳をお出しになったこともある湯川先生は、とうぜんのことながら、フランス語がおできになられた。かつてはフランス語文献講読の授業――だったか輪読会だったか――もなされた由である。先生曰く、「京大の教養時代に、大橋先生にきたへられたからね」。大橋先生とは、もちろん、あの大橋保夫先生のことである。「歌のうまいヤツは、フランス語もうまいのではないか」てふ仮説をおもちで、いつか調べたいともおっしゃってゐた。
ふたつめはお嬢さんのこと。
京大教育学研究科の院生時代に出あはれた奥さまの湯川隆子先生は、当時三重大学の専任でいらしたので、お嬢さんとおふたりの日もおほかったらしく、メシを作りに帰らなアカンとかいふてはったが、そのうち、ぼくに――湯川先生と同じ歳で、助手時代からともに心理学教室を盛り上げた金児元学長は、ぼくが芝居屋であることを、文学部長時代に、卒業式の式辞にネタとしてつかったりしてたし、いちぶには知られてゐたのだ――、娘が演劇部にはひってねと、はなしかけてこられた。市大の後に務められたのが宝塚造形大――現・宝塚大――の美術学科アートセラピーコースでもあるし、もともとアート系にはご関心をおもちだったのかもしれない。
こんな雑談のおほくは、教授会裡になされた。かつて庶務委員の2年委員をやってゐたぼくは、教授会のたびに、湯川先生と向かひあはせになる時期があったのだ――いまでも庶務委員の3名は、かならず上手側前の席につくことになってゐる――。
それ以外にも、教育促進支援機構の会長をお引き受けいただいたこともある。学生の活動にもご理解あるおほきなサポーターであった。
ご退職いらいお話しする機会のなかったことが、洵に残念でならないかたであった。