初出:『Theatre Research Bulletin』第6号 (2002年春号)、近現代演劇研究会: 6-11

演劇は祝祭か――《境界》の相互行為的発生

福島祥行(大阪市立大学/浪花グランドロマン)


1. 演劇祝祭論

 「芝居=ハレ(晴)=非日常」という図式は、もはや改めて述べる立てることに気恥ずかしさを感じるほどに、人口に膾炙している。そしてこの図式が、大方の了解を得たということは、現在もなお、「芝居」というものを「祝祭」のような「非日常」と捉えることに、一定のリアリティを感ずる人々が多いか、もしくは、そのように捉えたいという願望を抱く人々が少なからず存在するということであろう。
 この図式は、無論、「芸能」の発祥を、豊穣儀礼という「祭祀」に求めるという意味において無理のないところである。したがって観客たちは、そのような「祝祭=ハレ」に参加することによって、「日常=ケ(褻)」の生活の間に蓄積された鬱憤等を払いたいと願い、文字通り「カタルシス」(浄化)を求めて劇場にやってくる人々ということになる。たとえば波平美恵子らの民俗学者は、このような日常生活を送る間に「ケ」の力が枯れることが「ケ枯れ」(=穢)であり、この「ケガレ」を払って、元の日常生命力を恢復するのが「ハレ」の祭祀であると説くが(波平 1984)1)、芝居とはまさに「ケガレ払い=祝祭」と云い得る。
 そしてこのことはまた、芝居を作る側、殊に役者について妥当する。会社勤めや学校生活などの日常に褻(くたび)れた人々が、「台」に載せられ、「光」を浴び、非日常的に声を張るさまは、日常の垢を落とし、活力を恢復するための儀礼に参加する氏子たちの姿に他ならない2)
 斯様に「芝居」とは「ハレ」のものであり、劇場は「祝祭空間」として公演期間中のみ成立し、時が過ぎれば、何の変哲もない「ケ」の空間に立ち戻っていく。野外演劇がその典型として期待される所以であろう3)

2. 平田オリザの「祝祭」否定

 このような基本的図式に対し、一見、挑発的変更を迫るように見えるのが平田オリザである。現代演劇の大枠は、作り手が受け手に対して「作り手の見ている世界」を提示することにあると主張する彼は4)、「単調な日常からくる旧来のストレス」ではない現代の「都市のストレス」は、「従来の単なる発散型の祭りだけでは解消できない」(平田 1997: 38)のであり、「もはや演劇に、夢やロマンは必要ない」(平田 1997:42)と断定する。では、現代の都市生活者は、如何にしてストレスを発散しているのか。平田によれば、「過剰な情報や刺激をシャットアウトした静かな空間」(平田 1997: 38)において5)、「都市のストレスによって喪失していた自己の生活の座標軸を、おぼろげながらも取り戻そうとする」(平田 1997: 41)ことが、ストレスの発散ということになる。
 要するに、平田は、最初の基本図式にかんして云えば、「ハレ=非日常=祝祭」という図式は否定しておらず、そのような図式を「従来型」と規定した上で、そのような「従来型」が「都市」においては無効であると主張している。その理由を、平田は、「刺激によってストレスを発散させようとしても、刺激はより強い刺激を要求し、際限のない欲求は新たなストレスを生み出すだけだ」(平田 1997: 38)と述べる。つまり、「都市」はすでに「祝祭」に満ちているため、むしろ「静寂」が求められると云うわけである6)
 たしかに「都市」は「喧噪」に満ち溢れており、24時間、日々「祝祭」の空間と云い得る。当然、そのような状況下では、「喧噪=日常」なのであり、「従来型=喧噪型の祝祭」は、「非日常」としての有効性を持ち得ない。だが、その場合、「静寂」がストレス解消装置として有効なのは、「非喧噪=非日常」となっているからであり、「非日常=祝祭=ハレ」とするならば、必然的に「静寂=非日常」も亦「祝祭」となる7)。つまり、平田の否定するのは、単に「喧噪型祝祭」なのであって、「非日常」そのものを否定しているのではないのである。
 だが、平田はあくまでも「日常」を描こうとしているのではないか、という意見があるかもしれない。もちろん、平田の第一の目的は「世界をありのままに記述すること」であり、そのために「夢やロマンや一時の熱狂といった夾雑物を一切拭い去らなくてはならない」(平田 1997: 66)と説くことから、「一時的熱狂=非日常」ではない「恒常的=日常的」を目指していることは明らかである。しかし、その一方で、彼自身、「茶の間」が舞台では「日常会話」に終始してしまい、芝居が作りにくいと述べる。そこで、彼は、「茶の間」のような私的空間でも「路上」のような公的空間でもない、その両者の特徴を兼ね備えた「セミパブリックな空間」を舞台に設定する(平田 1998: 46-48)。なぜなら、そのような空間は、「内部」と「外部」が出会うことにより、登場人物の抱える「問題」が明らかになるからである。これらのことは、平田の描こうとするものが、「完全な日常」ではなく、謂わば「非日常を抱え込んだ日常」であることを示していよう。平田の「物語」にも、やはり「非日常=ハレ=祝祭」は必須なのである。

3. 観客と「祝祭」

 「物語」が構造的に「非日常」を要請する点において、平田の芝居は、「喧噪型」の芝居と同じ構造を有している。したがって、異なるのは、その「語り口」、あるいは「見せ方」ということになろう。「喧噪型」は、物語の構造のみならず、本火・本水のような道具を用いることで、その公演自体を一つの「非日常」となすのに対して、「静寂型」は、「日常的な身振り・話し方」を用いることによって、能う限り、公演を「日常」に近付けようとするわけである。
 この「喧噪型/静寂型」の組み合わせは、ただちに「ロマン主義/写実主義」という構図との類似を思わせるが、そもそもロマン主義がスタンダールやバルザックに見られる如く「レアリスム」と両立し得る点において、両者は対立概念ではない。「喧噪型」も亦、ロマン主義と同様、表現形式の可能性を追求した結果「喧噪化」したのであり、その目標が「世界をありのまま記述する」ことと相容れないわけではないのである8)。むしろ、写実主義が、ロマン主義への反発から出発しながらも、その表現形式の追求が象徴主義や印象主義に到ったように、「世界をありのまま記述する」ことへの欲望は、すでに「日常性」を逸脱する性質を胚胎していると云えよう。要するに、「芝居を打つ」ことそのものが「非日常」なのであり、人々が対価を支払うのも、基本的には、そのような「興行」に対してなのである。
 かくして、「観客は芝居に非日常を求める」という構図、言い換えれば、「観客はケガレを払いに、ハレの時空間を要請する」という構図は、現代の都市型社会においても、依然として有効であることが確認される。詳しく云えば、観客が求める「非日常」とは、「劇場に赴いて芝居を観る」という一連の過程そのものに他ならないのである9)

4. 「祝祭」の本質

 平田が正当にも選択したように、「出来事」は内部と外部の交叉する地点、すなわち「境界」において生じる。これは、「祝祭」に代表される諸々の「儀礼」が、たとえば河原、坂、村境などの、「日常=此界」と「非日常=他界」との接点において執り行なわれるということに通じる。厳密に云えば、これらの空間は、通常は普通の「日常的」空間であるが、特別の時間において、「非日常的」空間に変貌し、「他界」から「異人=モノ」が訪れることを可能にする10)。この、「日常」と「非日常」の重なり合った時空間こそ、「人」と「モノ」の関係し得る「境界」である。つまり「境界」は、「日常」でも「非日常」でもなく、両者の渾然と入り交じったものなのであり、そのような場で語られるのが「モノ語り」に他ならない。そして、「境界」は、「此界」「他界」のように恒常的・固定的なものではなく、両者からの相互作用によって、一時的に立ち現れ、やがて消え去る、浮動的性質を持つ。すなわち、「不断=普段」の相互作用(interaction)こそが「境界」をあらしめているのであり、そこに「相互行為=コミュニケーション」との類似を見ることが出来る。人が「ケガレ」を払うべく「祝祭」に参加するのは、そこが単なる「非日常」だからなのではなく、「日常」との接点を確保しているからなのであり、「日常」に復帰することが前提されているからである。そして、このような「境界」こそ、芝居に相応しい時空間であることは、云うまでもない。となれば、「劇場に赴いて芝居を観る」一連の過程も「非日常=ハレ」ではなく、「ケ」と「ハレ」の融合した空間に身を浸す「ケガレ払い」だと云えよう。かくして、最初の図式は、「芝居=祝祭=境界(日常+非日常)=ケガレ払い」と改められるのである。

【注】
1) 「カレ」を「離れ」と解して、「日常から非日常への移行」とする説もある(cf. 大野他 1990)。
2) 劇団に参加を申し出る、殊に役者希望者の志望理由には、この「日常離脱」願望がしばしば見られる。
3) 公演日数、時間帯の相違等によって、一概に云うことはできないが、われわれの浪花グランドロマンにおける野外演劇と小屋劇の観客動員は、作・演出・キャストがほとんど同一であっても、常に野外の方が上回る。
4) 現象学にインスパイアされ、「私に見えている世界=私の身体が知覚する世界」を「ありのままに記述する」ことを目指す平田のこの図式は、しかしながら「私しか知らない世界」を要請し、それを保存する構造において、「独我論的構成」を免れていない。事実平田は、「私たちは他者の知覚を知覚することはできない」(平田 1997:48)と述べている。
5) この記述から、「静かな演劇」と呼ばれる平田の芝居が、自覚的に「静か」を目指していることが判る。
6)  云うまでもなく、このような考え方は、高度文明に疲弊した西欧人が東洋やアフリカに赴くとか、やはり疲弊した都会人が都会を離れて田園・山間・離島に旅するとか、そのような暇もない勤め人が帰宅後に部屋でリラクゼーション音楽に身を浸すといった図式に、甚だ似ている。そのことだけに注目すれば、平田の目指すものは、巷間流行る「癒し」になってしまうが、まさか平田が「ヒーリング・シアター」を目指しているとは考え難い。彼の表現動機は「私に見えている世界を、ありのままに記述すること」(平田 1997: 24)であるのだから、「癒し」はその副産物ということになる。
7) つまりは定義の問題である。「祝祭」は本質的に「喧噪」を内包するのだという声が強ければ、こちらのは「静寂型祝祭」や「都市型祝祭」などと呼び変えればよい。
8) もちろん、平田オリザが「喧噪型祝祭」を否定するのは、巷間溢れる「気晴らし」(divertissement/entertainment)が、おおむねその種のものであり、彼がそのことにある種の苛立ちを覚えているからに違いない。実際、ハリウッド製の映画に代表される「喧噪型」のエンタテイメント作品群は、日本中のみならず世界中で、数多くの人々に足を運ばせ、刹那的とは云え、そのストレス発散に寄与している。あるいはここに、予想を300万上回る年間入場者数1100万人を動員した大阪のUSJを付け加えてもよいかもしれない。
9) 当然、野外演劇のように、その「劇場」が「日常的」にはそこに存在しない「非日常性」の高いものであれば、「ハレ度」は増すに違いない。野外演劇が「非日常=祝祭」の代表のように語られることが多いのも、這般の消息によると思われる。
10) 逆に、山中や海中にあって、普段は「人」の行き得ない空間が、何らかの理由によりアクセス可能となったものが「隠れ里」や「竜宮」のような「境界」である。なお、典型的な「他界」は死後の世界であり、普通の「人」は行き得ない。

【参考文献】
大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編 (1990)『岩波古語辞典』補訂版,岩波書店.
GAY, Peter (1998)『快楽戦争』[富山太佳夫]青土社,2001.
波平恵美子 (1984)『ケガレの構造』青土社.
平田オリザ (1997)『都市に祝祭はいらない』平田オリザの仕事2,晩聲社.
平田オリザ (1998)『演劇入門』講談社現代新書1422,講談社.
BROOKS, Peter (1995)『メロドラマ的想像力』[四方田・木村]産業図書,2002.


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