【雜文】(1994.4) 『市大かわら版』第10号(大阪市立大学広報活動スタッフ)ボツ版

 先だってから、主人は、部屋に引き籠もって、何やら呻吟してゐる。何でも「外國語の勉強のしかた」と云ふ文章を書かねばならぬらしい。吾輩は、九十年ほど前に水甕に落ちて、てっきり死んだと思ったら四十五年ばかり前に復活してしまひ、今日に到る迄〔まで〕曠日彌久〔くゎうじつびきう〕に過ごしてゐるが、その間に仕へた主人達は、何故だか皆んな語學の教師である。一人目の苦沙彌先生は英語の教師だった。二度目の五沙彌入道は獨語で、今囘の主人は佛語である。何時の間にか吾輩も、門前の小僧式で、語學には些〔いささ〕か通曉〔つうげう〕してしまった。それで一寸覗いて見ると、ワープロの畫面には、「外國語は、一に發音、二に單語、三四が無くて、五に文法である」と云ふ文章が映じてゐる。慥〔たし〕かに、發音を知らずば何も口に出來ず、單語を知らずば文章が貧弱と化し、文法を知らずば文章を創出したり讀解したりする能〔あた〕はずに成ってしまふであらう。順番も、先づ簡單な文章のパターンを聽覺的視覺的に丸憶えする事から始めて、次いで單語を入れ換へて語彙を増やし、最後に過去形や未來形、疑問文や命令文に變形して行ってバリエーションを付けると云ふ學習方式に對應してをり、理に適〔かな〕ってゐる。愚〔ぐ〕な主人にしては大出來である。吾輩が胸中密かにかう考へを巡らしてゐると、主人は次なる文章を打ち込んだ。「それから、外國語の歌を聽いたり、映畫を觀たり、文章を讀んだりすると良い」成程さうかも知れないが、些〔ち〕と簡略に過ぎよう。會話に秀でる爲には外國語のシャワーを浴びて耳を慣らす事の必要を説き、讀解に通ずる爲には辭書と首っ引きで大いに讀んで目を慣らす事を奬勵すると云ふ風に、目的を分明にして置かねばならん。すると主人は、續けてかう打った。「そして『言葉』と云ふ物に關心を持ち、愛すること」これ亦〔また〕曖昧なる事夥〔おびたゞ〕しい。
、教師の云ふ事を聞くのが肝要である」
ら、主人の考へは、大いに正しい。然〔しか〕し、主人の斷定しているのは「學ぶ内容」についてゞあって、「學ぶ方法」に關してゞはない。文章の題は「外國語の勉強のしかた」なのだから、「方法」を書いて遣〔や〕らないと、それを讀むであらう新入生諸君には何の役にも立たぬだらうに、そんな事は毫〔ごう〕も考へてをらぬ風である。(未完)


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