《ことば》に憑かれた人たちの復権
マリナ・ヤグェーロ『言語の夢想者――一七世紀普遍言語から現代SFまで』(原著1984年)谷川多佳子・江口 修訳、工作社、1990年 Marina YAGUELLO, Les Fous du langage ― Des langues imaginaires et de leurs inventeurs , Seuil, Paris, 1984 難易度:B 「普遍言語」や「人工言語」に対する関心の有無を問わず読める、いわば《裏言語学史》。巻末に具体的資料の抜粋あり。 「空想言語」の四タイプ 現代のアニメ・マンガなどには、異なる言語集団に属する人々間のコミュニケーションのために、しばしば超能力的手段があらわれる。たとえば『風の谷のナウシカ』(宮崎駿、徳間書店)にみられるように、これらはおおむね、ことばを使わず、相手の心に直接「語りかける」方法をとっている。しかしながら、「聞いている」相手は、これをどのようにして理解しているのだろうか。 考えられる方法はふたつある。ひとつは、心中に流れこんできたイメージ/メッセージを、ふしぎなメカニズム(普遍文法?)により、知らぬまに自国語に翻訳して「わかる」という方法であり、もうひとつは、イメージ/メッセージをそのままの形で「感じる」という方法である*。前者の方法には「ことば」が介在し、後者のやり方には「ことば」が関わらない。いうまでもなく、伝達効率としては、後者の方が優れており、これこそ究極のコミュニケーションといえよう(図1)。 この『言語の夢想者』において、ヤグェーロのあつかう「空想言語」(langue imaginaire) は、「(哲学的)普遍言語」「人工(国際)言語」「創作言語」「異言」の四種類に分けられるが、これらはそれぞれ、つぎのように説明できる。 ノウルソンの本のところで述べられているように、「普遍言語」とは、ものごとの本質(イデア)をそのままの形でダイレクトに伝えるという、この「究極」の方法の追求の果てに生まれた(「哲学的」と呼ばれるゆえんである)、いわば「神と会話するためのことば」である。また、「人工言語」とは、エスペラント語に代表されるように、「普遍言語」の考えを現実化して、母語を異にする集団間のコミュニケーションを容易にすべく考え出されたアイテムといえる。 一方、小説などの「創作言語」は、空想旅行記における異国情緒の補強材としての「ふしぎなことば」と、ユートピアを体現するものとしての「すばらしいことば」に分けられる。たとえば、シラノ・ド・ベルジュラックの『月世界旅行記』の諸言語は前者で、『太陽世界旅行記』の言語は後者である。また、「異言」(glossolalie) には、神の御言葉を伝える「聖なることば」と、得体は知れぬが言語としての体裁は整っている「妙なことば」の二種類がみとめられる。たとえば、ペンテコステ派の異言は前者で、エレーヌ・スミスの火星語は後者ということになる。 「手段」から「目的」へ よっつのタイプを図式化してみよう(図2・図3)。「普遍言語」では、イメージ=言表とすることで、イメージ(概念)がア・プリオリに存在している、すなわち、万人がそのイメージ(概念)を知っているならば、どんな言語の話し手でも、言表の元になったイメージを想起でき、理解できる。「人工言語」は、ようするに新しい文法コードの創出である。「創作言語」も、その点では同じであるが、聞き手が前提されていないところが異なっている。そして「異言」では、話し手の副意識下から(あるいは《天》から)あらわれた「なにごとか」が、一定の文法コードにしたがって言表化され、それを《聞き役》が「翻訳」することにより、はじめて、なにがしかの意味が立ち現れてくるわけである。 この図をみくらべると、図2の方は、どちらも「イメージの伝達」をめざしたものだが、図3の方は、いずれも「伝達」が二の次になっていることがわかる。たとえば、J.R.R.トールキンは、もともと自分の作りだした言語(エルフ語)を使ってみたくて、あの『指輪物語』を書いた。また、異言の発話者の多くが、異言を発することによって、なんらかのカタルシスを得ているという。つまり、ここで大切なのは、「伝達」ではなく「表出」なのである。 しかし、「人工言語」の実際をみると、さきの見立てはとたんに怪しくなる。この本の巻末の資料をみると、一八八七年から一九五六年にいたるまで、ほぼ毎年のように、あたらしい人工言語が誕生しているらしい。つまり、人工言語にたずさわる人々は、もはや「伝達」などそっちのけで、自分の道具をみがくことにのみ専心しているというわけである。 さいごに残った「普遍言語」でさえ、無事ではない。たとえば、十七世紀普遍言語構想の一例として『万国語あるいは普遍言語案内』を著したトマス・アーカートは、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』の英訳者でもあるが、彼は、ラブレーおとくいの「ものの名づくし」を訳すさいに、原文にひとつふたつ、場合によっては七倍もの分量をつけくわえてしまっている。これはひとえに、彼が「ことばに憑かれた者」であったからにほかならない。つまり、「普遍言語」も、やはり「ことばに憑かれた者」が《ことば》に淫するあまり考えだしたものなのであり、彼らにとって《ことば》は、なにごとかの「手段」ではなく、「目的」となっていたわけである。 「言語の夢想者」 かくして、「空想言語」を生み出すことは、いずれにせよ「文法コードとその表象の創作、およびその陶冶」へと帰着する。そして、その創作者たちは、「ことばに憑かれた者」としてマージナルな存在となる。しかし、『言葉と女性』『言葉の性』の著者でもあるヤグェーロは、女性や子供、さらには狂人、詩人など、いわば《ことば世界の少数者 》を、はっきり擁護するであろう*。ここにいたって、ようやく我々は、序章のエピグラフへとたどりつくことになる。すわなち「多かれ少なかれ言葉に憑かれていない言語学者や詩人がひとりでもいるだろうか」(p.13)と。 (頭注1) *現在、脳内における認識のメカニズムの説で有力な、ひとつの認識対象となる現象の全体をいちどに処理してしまう「並列処理」説によれば、このようなコミュニケーションも夢ではないかもしれない。じっさい、アインシュタインは、相対性理論が「一枚の絵のように頭に浮かんだ」という。これは、前言語的イメージによる伝達の可能性を示唆していよう。
*「異言」に幼児語の特徴がみてとれることなどから、彼女は、抑圧からの解放が根底にあることを示唆している。このことに関連して、たとえばザメンホフのように、人工言語の創作者たちには、英・仏・露などの「大国家語」に「抑圧」された小国の人間がいたことも忘れてはならないだろう。つまり、《ことば》の創出は、精神的脱出の手でもあったのである。 関連図書: トマス・アーカートの「万国語あるいは普遍言語案内」は『澁澤龍彦文学館』3(高山宏訳、筑摩書房、1991年)に所収。また、トールキンの「エルフ語」については『シルマリルの物語』(田中明子訳、評論社、1982年)にくわしい。これは、じつに言語学のパスティーシュとなっているが、それも道理、彼は、古英語を専門とする言語学者である。ほかに、これも「ことばに憑かれた」作家・井上ひさしのテレビドラマ「國語元年」(『日本語の世界』10所収、中央公論社、1985年。後、戯曲に改作)は、明治七年「全国統一話言葉」という「人工言語」の作成を命じられ、狂人になってしまう官吏の悲喜劇をえがく。 マリナ・ヤグェーロ (Marina YAGUELLO, 1944-) フランスの言語学者。リトアニア系ポーランド人を父に、ロシア人を母に持ち、ロシア語を母語とするが、生粋のパリっ子で、フランス語のほか、英・独・西・伊・ウォロフ語を自由にあやつるという。ヤーコブソン、バンヴェニストの影響のもと、マルティネ、キュリオリに言語学を学び、「ことばの周縁者――女性、子供、詩人、狂人」で国家博士号を取得(指導教官・C.アジェージュ)。現在、パリ第七大学の言語学助教授。主な著書に、『言葉と女性』(1978年)、『ことばの国のアリス』(1981年)、『言語の夢想者』(1984年)、『言語についての社会通念カタログ』(1988年)、『言葉と性』(1988年)などがあり、一貫して、人間と社会の関わりから、ことばを研究する。また、母語がロシア語のため、バフチンの翻訳なども手がけている |