磯村隆文・大川 勉 編 『新しい日本型大学:大学多様化の構想』 ここ数年来、妖怪の世界では、高等教育のありかたについて、様々の検討や数々の試行や色々の喧嘩がなされている。巷間云われるところの「妖怪大学改革の嵐」である。「妖怪大学の危機」のみを取り上げれば、これは今に始まったことではない。近年は、山林の開発や都市活動の不眠化、加えて子供たちの想像力貧困化などに伴う「妖怪人口の減少」という新要因が加わったと云われているが、この点にかんしては、進学率の上昇と生涯学習の普及によってカヴァーできると見られており、致命的な問題ではないとされている。むしろ問題は、妖怪の大学というものの存在意義が、ややもすれば見失われがちである点にあった。無論、世間一般の妖怪や、受験妖怪たちにではない。大学妖怪たちにとってである。 かくして、数々の提言が大学妖怪たちによって行なわれることになる。「生涯学習に対応せよ」「少人数教育で学生との対話を恢復せよ」「大学ごとの個性を確立せよ」「国際化に対応せよ」「学部エゴを廃し、大学全体の視野に立つ運営機構を考えよ」「教育内容・方法に意を用いよ」「一流研究者を擁すべく、研究費の傾斜配分の如きを考慮せよ」等々。これらは一々尤もな提言であろう。しかしながら、妖怪大学界の改革は遅々として進んでいない。その最大にして根本的な原因は、妖怪間の認識の相違にある。 たとえば或る妖怪大学では、まず、山姥・化け狸・ろくろっ首など「人喰い」「変身」「異形」系の妖怪たちが、近来の妖怪学生たちの「化け能力」の著しい低下を嘆き、妖怪大学においては「化け能力」の教育に力を入れるべきだと主張した。これに対し、猪口ぼろん・雲外鏡・化け草履など百年経たなければ化けられない「古物」系の妖怪たちは、そんな教育は無意味であり、むしろ「広く化け物たるうえで欠かせぬ知識・伝統」をこそ教えるべきだと反論した。一方、小豆とぎ・砂かけ婆ア・子泣き爺イなどの「驚かし」系妖怪たちは、人間を驚かすことこそ妖怪の本分であるから、「驚かし能力」の陶冶に努めるべきだと論じたが、これには、ぬらりひょん・油すまし・ぬっぺ坊などの「ただ現れる」系の妖怪たちが、そのような「技術教育」は妖怪大学にふさわしくないと反対。加えて、垢なめ・座敷わらし・天井なめのような「家」系の妖怪は、妖怪と人間の関係性に「驚かす−驚く」以外の道を探り、人間と共存・共栄する能力をこそ教育・研究すべきであると主張、旧来の在りかたに一石を投じたが、これを「人喰い」系が「軟弱日和見主義」と罵倒し、これに「家」「古物」系が「現実追従主義」と応戦、これにまた「驚かし」系が「お前らなんて、無闇に多いだけじゃないか」とからんで、妖怪大学評議会の席で掴み合いの喧嘩にまで発展した。 のみならず、鉦五郎・口裂け女など、系列を越えた「都会派」妖怪からは、二十四時間眠らず煌々と明るい都市の出現こそ妖怪にとっての現代的課題であるとして、「夜間都市型妖怪大学」への脱皮を計るべきだとの意見も出されたが、一本だたら・のつごなどの「山中派」妖怪は、そのような形では我々は協力できないと強く反発、「都会派−山中派」対立の亀裂を深めるにとどまった。さらには、ここへ来て、大体「お化けにゃ学校も、試験も何にもない」はずだったのではないか、と、妖怪教育そのものに疑念を呈する一派も擡頭し、要するに、妖怪大学改革の現状は「何だか良く判らない」状態なのである。 また、数年前に、フランス妖怪高等教育界の柱の一つ「コレージュ・ド・フランス・シュルナチュレル」(これは、ゼミ・講義が一般に開放された「高等市民講座」である)が、ルー・ガルー教授を中心に教育・研究についての改革提言を行なった。そこには、「基礎と応用の序列的分化の問題」「学校と教師の社会的役割」「保守化・流行化の危険性」「生涯学習の重要性」などが述べられており、基本的認識はいずこも同じという感を抱かせられるが、ここでも問題は、如何にして改革するか、なのである。 少し前に、人間界の大阪市立大学関係者を中心として『新しい日本型大学』という本が出され、妖怪大学関係者の間でも話題を呼んだ。改革のハウツー本を期待していた多くの妖怪大学関係者は些かがっかりしたようであるが、そんな本があれば苦労はしない。外圧・内圧・時流・反省・自己革新のいずれを問わず、変わるときは変わるし、変わらぬときは変わらぬのである。 むしろ気の毒なのは教員側の都合に振り回される学生のほうであろう。しかしながら、過日行なわれた総務庁統計局の調査によって、大学妖怪たちを愕然とせしむ結果が公表された。何と実際妖怪大学に学んでいるはずの妖怪学生の86%までが「お化けにゃ学校も、試験も何にもない」と思っていたのである。 (阿吽社 二四六〇円) |