すーちゃんのこと

By 黒猫亭主人, 2010/06/04

5/5の朝、もしくは5/4の夜。
すーちゃんが死んでまうた。

彼の同僚のアミさんから電話があり、食ひしばった歯のあひだから押しだすやうな彼女のことばで、ぼくはそのことを知った。
ノドの癌を患って、ずっと闘病中やったのは知ってたんやけど、まさかてふおもひのはうが強かった。
病巣あたりの血管が突如やぶれた末のことやったらしい。でもそれって、病気も死に方も澁澤龍彦といっしょやん。

最後のメールは昨年の仏文学会後、5/24。
ぼくを心配させたないてふ彼を、アミさんがせっついて出させたらしい。声帯を切除して声をなくしてゐた彼が、ふたたび取り戻すための「食道気管シャント法」手術をうけるてふ内容で、「お会いできなくて、とてもさみしひ、です。すーちゃん 拝」と書いてあって、こっちも会ひたいと送ったけれど、それから一年、けっきょくすーちゃんには会へずじまひやった。

はじめて会うたんは、1998年の秋。大学に教科書の営業にきてゐたすーちゃんが、研究室をおとづれて、毎年新入生に配布してゐる『ことばの森』をみましたよといふてくれたのがさいしょやった。それがきっかけで、翌年の4月、彼の編集してゐた『ふらんす』別冊の「フランス語入門」に「ラルクのデビュー――1999 年ウサギ年のフランス語――」てふネタを書かせてもろたんが、ぼくの『ふらんす』デビューやった。
これはウサギの「ミップィー」と南仏人やったノストラダムスのかけあひでもってフランス語の特徴を説明するてふやつで、挿絵も描かしてもらうてる。この文章、ノストラダムスに関西弁をしゃべらせたんやけど、これを採用してくれたすーちゃんは、やっぱ希有な編集者やった――ちなみに、その後、現在は社長の及川さんにはじめて会うたとき、「あのひどいセリフの」と笑ひながら云はれたが、すーちゃんに自由に仕事させつづけた及川さんも偉大なひとやといへよう――。

つづく2000年から2年間は、毎回パスティーシュによる「フランス語質問箱」を連載。その後も、単発のエッセイや、コミュニケーションを論じた「こぼれる気持ちと伝わることば」の連載――これは、ぼくの博論の土台になった――なんかを書かせてもろた。
とりわけ、彼の最後の仕事になった「哲学の現代を読む」シリーズのベースになったオムニバス企画「12人の思想家たち」に似顔絵イラストをつける仕事は、イラストにそへるセリフのために、毎月思想家たちの文章をアレコレ読まんとアカンてふ大変さで、さいしょのバタイユのイラストが遅れに遅れ――けっきょく、センター試験の仕事で東京にいったついでに、白水社まで原稿持参したほどやった――、すーちゃんをして「今回は逃げられたと思った」と云はしめたほどやったけど、ぼくじしんにとってはたいさう勉強になった。ジャン=リュック・ナンシーの回を執筆された澤田直さんに親しくしていただいてゐるのは、ひとへのこのイラストを描いたせゐにほかならへん――ちなみに、この年度は、最後4回分、関大の大久保くんの連載にもイラストを描いてたんで、毎号テイストの異なるイラストをひとつづつ載せてたことになる――。

そんなこんなで、すーちゃんとは、編集者と執筆者の関係を越えたおつきあひやったとおもふ。1999年の秋には、築港赤レンガ倉庫前でやったテント芝居を、わざわざ東京から観にきてくれた――ざんねんながら、ぼくが彼のライヴを観られたのは1回だけやった。そのとき、いまは明大の清岡智比古さんに紹介されてゐる――こともある。
またあるときは、当時はまだ京大の院生やった中島岳志さんと大阪で呑むからてふので呼んでくれ、市内にある中島さんの実家の近所で呑んだりもした。もちろん、東京では彼のテリトリーである中野やら西荻やら町屋やらで呑んだ。そんなときは、業界のひとよりも、彼の遊び仲間といっしょのことがおほかったとおもふ。

もちろん、二人きりで呑んだこともようさんあった。
いちど、ふたりきりで、彼の誕生日である5月末日の午前0時をむかへたことがある。場所は、なぜか東大安田講堂前。
ぼくらは、コンビニで買うたヱビスの黒ビールを片手に正門をくぐり、しばし構内をぶらついてゐるうちに、日付が変はったてふことで、すーちゃんの不惑の歳を祝はうたのやった。さうして、同年齢(タメ)やったぼくらは、おたがひ「あゝ不惑」と感慨にふけったものやった。

呑めばかならず仕事のハナシになった――てふか、それこそ大切な呑み会の目的のひとつやった――。さうして、ずっと「ふくちゃん、フランス語の文法書を出さう」といふてくれ、ぼくもアツく提案を出したけど、計画は、いつもビールの泡のごとき結末をたどった。
ところが、一昨年、到頭、千葉大の独語学者・清野智昭さんの著書『中級ドイツ語のしくみ』が送られてきて、これが売れゆき好調なんで、こいつのフランス語版を出さう、そのために『ふらんす』に連載しよう、あなたは逃れられない、てふメールをもろた。ぼくも覚悟をきめた。よし、書かう、と。
さういふわけで、アミ編集長のもと、昨年度『ふらんす』連載したんが、「浪花ふらんす亭弥縫録」やった。単行本になったアカツキには、あの「質問箱」もオマケで付けようと、すーちゃんは提案し、ぼくに否やはなかった。
けれども、原稿は貯まらず、ふりかへってみれば、けっきょく、すーちゃんとは一冊の本も、教科書すらも出せずじまひやった。

闘病中とは知ってゐても、まさか死んぢゃふなんて、かんがへもせえへんかったのだ。命みぢかし恋せよ少女(をとめ)。少年老い易く学成り難し。人間、いつかて、あすなんか待ってたらアカンのやてふことを、あらためて思ひしらされた。

先日の学会出張時に、すーちゃんのバンド仲間でもあったアミさんに、直近の彼のことをいろいろ聞いた。なにしろ壮絶な闘病生活やったらしい。そして血まみれになって亡くなった最期も。でも、ほんまの最後がどうやったんかは、だれにもわからへんらしい。5/4の夜中の防犯ヴィデオに、家を出て、戻ってくる姿が映ってたさうやけど、どこへ行ったのか、なにをしてたんかは不明で、とにかく発見されたんが5/5やったさうな。

すーちゃんが死んでから、さも親しかったかのやうにあれこれ話し出すひとが出てきたことをアミさんは憤ってゐたけれど、いちど会ったらなかなか忘れがたいインパクトをあたへるすーちゃんは、同時にいちどきりしか会ってへんひとにも愛されたんやと、ぼくはおもふ。

仏文学会の一日前にあった仏語教育学会の日も、白水社のブースで、及川さん、菅家さん、ミドリらに声をかけられ、すーちゃんの話題になる。手がけた本がヒットする編集者やったけど、社会人としちゃ脱線気味やった彼を庇ひつづけた及川さんは、彼を偲んでまた呑みませう――けっきょく彼を連れてけなかった蕎麦屋で――といふてくれはった。
そのほかにも、他社の広沢さんとか石田さん福光さんとか、ぼくの顔をみると、みな、すーちゃんのことを話しかけてくる。たぶん、彼のお葬式で、ぼくの弔辞が読まれたせゐやとおもふけれど、それだけ、みんな、彼についてまだいろいろ話したかったんにちがひない。すーちゃんてのは、さうさせるひとなのだ。

じつはお母さまのお墓にはひるてふ目的のために、苗字も変へてゐたすーちゃんは、厳密には「すー」ではなかったわけやけど、ぼくにとっては、いつまでも「すーちゃん」やから、こゝではさう書いた。
藤田(須山)岳彦、享年46歳と11ヶ月。
リタイア後には、大学院に社会人入学して、哲学の博論でも書いてみたいと云ふてた哲学好きすーちゃん。
命みぢかし恋せよ少女。少年老い易く学成り難し。Carpe diem. Festina lente. や。

ほな、また、そっちで。

ふくちゃん 拝

2005年5月26日。中島さんと、中島さんの『ボース』を装丁した矢作さん、白水社のケンちゃんと。

手元に残る唯一のツーショット。

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