憲法と一遍と清志郎

By 黒猫亭主人, 2009/05/03

日本國民は、恆久の平和を念願し、人間相互の關係を支配する崇高な理想を深く自覺するのであつて、平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本國憲法前文)

生ずるは獨り 死するも獨り 共に住するといえど獨り さすれば 共にはつるなき故なり(一遍)

昨日は 車のなかで 寝た あの娘と 手をつないで(忌野清志郎「スローバラード」)

……

昨年も書いたやうに、日本の憲法の前文――法的性格(法規範性)を有してゐる――は、「国際社会から尊敬され」るに充分な、世界平和についての決意宣言である。これはとりもなほさず、人間が単独では生存しえない存在であることを前提としてゐる。しかし、ひるがへって、われわれは、踊り念仏の一遍のことばにも、共感をいだく。

じつは、先々週、伯父さんが亡くなった。ベッドのうへで読書中の、心臓麻痺による急逝らしい。子どもたちも疾うに独立した彼は、諸々の理由もあって独居老人であった。他人からみれば恵まれたやうにみえる人生――東大出の銀行マンであった彼は、現役時代、それなりの地位に昇った。息子は医者となり、娘はベルギーで商売をしてゐる――であっても、まさに「死するも独り」。尤も、現代において、家族や知人に看取られながら逝くひとびとの数は、いかばかりであらうか。

「市大授業」の折に、人間、死するも独りですねえ、と云ふと、国文の村田研究科長は、即座に一遍のことばを述べ、「昔の一般教養の授業で、このことばだけ憶えてるんです」と、隣にゐたマイマイに云ふのであった。丁度その日、風邪の篤かった小生は、他人事ではない想ひを重ねてゐたのであったが、だから人間、他人なんざどうでもよいてふことでは、けっしてない。むしろ、「独り」を前提とするからこそ、他人との「関はり」が、貴重なものであることがよくわかる、てふ寸法なのだ。

人間関係は、昨今流行の風にいへば「めんどくさい」ものに相違ないが、そこには「悪い予感のかけらもないさ」(忌野清志郎「スローバラード」)。

ひとがコミュニケーションをおこなふとき――そしてそのときにかぎり――、ふたりはまさしく「同一世界」の住人であり、「独り」ではないのだ。昨日亡くなった清志郎の曲のなかでも、とりわけ贔屓の「スローバラード」は、恋の奇跡とともに、這般の消息をあますところなく伝へてゐるのである。

……

ぼくら夢をみたのさ とてもよく似た夢を(忌野清志郎「スローバラード」)

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