大阪市立大学インターネット講座2001

《意味》の生まれる場所
――言語理解システムの探究――



補講



6. ふたたび《コミュニケーション》とは――「意味」はどこにあるのか

 「コミュニケーション」とは甚だ厄介なものでありますが、人間=社会的生物として存在する以上、「他の個体」との「コミュニケーション」を避けて通るわけにはゆきません。しかしながら、あらためて「コミュニケーションとは何か」と考えると、それがまた大いに難問であることに気が付きます。これを読まれた多くの方々は、さまざまのコミュニケーション観をすでにお持ちだったでしょうが、それは私が紹介したいくつかのコミュニケーション観と同じものだったでしょうか? それともまったく異なるものだったでしょうか? そして、後者であったとして、お持ちだったコミュニケーション観に変化は生じたでしょうか?
 ここでは、これまでの内容をまとめながら、2002年4月時点で、私の考えている「コミュニケーション」と「意味の在処」について述べたい思います。

 「意味の確定」という問題

 多くの人が思う「コミュニケーション」とは、基本的に「発信者が持っている何かを、受信者に伝え渡す」ということでした。当然、発信者のものであるAが、受信者にAとして手渡らなければ、コミュニケーションは不成立ということになります。このことは、言葉の面から見ると、言葉の持つ「意味」がちゃんと伝わるか否かということです。したがって、伝えられるAは、「コード」に従ってエンコード(符号化)/デコード(復元解釈)され、その「コード」は発信者と受信者に共有されていなければならないというのが、第5回の(8)のような図式でした。
 ですが、第7回で見たように、言葉の理解には「コンテクスト」が不可欠でした。たとえば、次の発話において、「穴」の《意味》は、「コンテクスト」(この場合は「先行文脈」)なくしては決定できません。

(55)
  1. ヤツの計画は杜撰だからな。穴だらけだ。
  2. 雨が降ったからな。穴だらけだ。

 では、先行文脈や発話者−共発話者たちの知識などの「コンテクスト」さえ考慮に入れれば、《意味》は常に確定可能なのでしょうか。

(56)  静かに公園の奥からやってくると、子供は若い娘の前に立った。
 ――おなかすいた、と、子供は云った。
 それが、男にとって、会話に加わるきっかけとなった。
 ――実際、おやつの時間ですよ、と男は云った。
 若い娘は気を悪くもせず、逆に、男に向かって共感の微笑みを投げ掛けた。
 ――ほんとに、たぶん四時半ちかくだと思います、あの子のおやつの時間です
 彼女は、ベンチに置かれた傍らの籠の中から、ジャムを塗ったタルティーヌを二つ取り出すと、子供に与えた。そして、ナプキンを器用に子供の頸の回りに結んだ。男は云った。
 ――おとなしい子ですね
 若い娘は否定のしるしに、首を振った。
 ――わたしの子ではありませんの、と彼女は云った。
 子供は、タルティーヌを持って向こうへ行った。木曜日だったので、その公園は子供で一杯だった。大きな子はビー玉や追っかけっこをして遊び、小さな子は砂場で遊び、もっと小さな子は、乳母車の中で、一緒に遊べる時が来るのを辛抱強く待っていた。
 若い娘は続けた。
 ――あの子はわたしの子みたいですし、よく、わたしの子だと思われるんです。でも、違うと云わなくちゃなりません、あの子はわたしと何の関係もないんです。
 ――判ります、と男は微笑みながら云った。
 ――私にも子供は居りません
 ――ときどき変な気がしますの、こんなにたくさん、そしてあちこちにいるのに、自分には一人もいないっていうのが。そうお思いになりません?
 ――そうですね、お嬢さん。でも、もうずいぶん居るじゃありませんか
 ――でも
 ――ですが、子供が好きで、子供をたいそう気に入っているのなら、そんなことは、それほど大したことではないのではありませんか?
 ――逆のことだって、云えませんか?
 ――そうですね、お嬢さん。えゝ、それは、その人の性格に依るでしょう
(Duras, Le Square)

 (56)の会話において、「おとなしい子ですね」という発話の《意味》は何でしょうか。普通ヽヽは、「物静かな子」「手が掛からない子」etc. という《意味》だということになるでしょう。ですが、ここで後続する発話は「わたしの子ではありませんの」というものです。この若い娘の発話は、明らかに直前の男の発話を承けています。したがって、直前の発話の《意味》と関連のある発話に違いありません。ですが、この発話を導くのに用いられるのは、普通ヽヽ、「その子は、あなたのお子さんですね?」のような発話でしょう。ということは、若い娘は、男の「おとなしい子ですね」という発話を「あなたのお子さんですね?」という発話と聞き間違えヽヽヽヽヽたか、そのように解釈ヽヽしたかのいずれかということになります。前者の可能性は排除できませんが、ひとまず除外するとして、後者のケースだと仮定すると、若い娘は男の発話を「どのようにして」「なにゆえに」、そのように解釈したのでしょうか。
 ある人は「状況等のコンテクスト」のためであると答えるかもしれません。すなわち、次のような彼女の心理シミュレーションが成り立つというのです。

(57)
  1. 男の発話は、子供を褒めているように聞こえる
  2. 子供を褒めることは、その親を褒めることに繋がる
  3. 子供を褒めるような発話を、男は自分に対して行なっている
  4. 子供は自分に対しておやつをねだった
  5. 男は自分を子供の親と看做しているらしい
  6. 男の誤りを正しておかねばならない
このような心的過程の結果、(56)の否定のジェスチャーと発話に到ったというわけです。
 たしかに、上のような「推論」を行なうことで、若い娘は、男の発話を「あなたのお子さんですね?」という《意味》に「解釈」したと云えるかもしれません。ですが、その場合、その「解釈」は正しいのでしょうか? 一見して判るように、この考え方は「聞き手優位」であり、男=話し手の「伝えたいこと」は、歪曲されているのではないのでしょうか?
 すぐに予想される反論は、発話の「文字通りの意味」すなわち「明示」(explicite)と、「汲み取られた解釈」すなわち「暗示・含意」(implicite)を区別すれば問題ないという考え方です。この考え方によれば、(57c)の段階で、若い娘は、男の発話の「文字通りの意味」をちゃんと復元しており、それとコンテクストを基に、(57e)のような「解釈」を「汲み取」ったということになるでしょう。しかし、この考え方には、「文字通りの意味」と「解釈」の境界線がどこにあるかという問題が常に付き纏います。

受講生の方々にはまことに申し訳ないことですが、現時点[2002年4月]では、ここまでしか書く時間がありませんでした。改めてお詫び申し上げます。この先は、時間が許せば、完結させたいと思っていますが、とりあえず、メモ書きを残して置きます。みなさん、ご参加、大変ありがとうございました。)

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(58)
  1. 他者不在(世界は自分と同質の人間だけで成り立ってゐる=独我論)はコミュニケーションの不在である。何故ならば、「自分」しかゐないのだから、何かを伝達する必要がない。
  2. 「本質」とは「Aは、何があってもAである」てふこと。これは「コミュニケーションに先立ってゐる」。つまり、「他者」とのコミュニケーションによってAが変化する可能性を認めない。謂はゞ、話し合ひの余地がない。従って、ゆるぎない「本質=真実」の存在を疑はないことは、コミュニケーションを拒否すること、他者を認めないことになる。
  3. 「意味」がコミュニケーションに先立って確立されてゐるといふ考へ方は、「他者」には知り得ないものがあることを認めることになる。=独我論
  4. 「他者不在の世界の[コミュニケーション]」は、「お互ひに知ってゐたことの再確認」でしかない。「分かり合ってもらへる内輪」に無限後退的に閉ぢこもる現代の傾向。この内輪=情緒的共同体には、他者は不在であり、当然、変化も進歩もない。そのやうな共同体に、如何にして回収されないやうにするか。

・だから、相手の云うことは判らない=ペシミスト
・だから、相手の云うことは常に判る=オプチミスト

 ウィトゲンシュタインと相互行為分析

 これまでの記述からすでに明らかかもしれませんが、私は、「ウィトゲンシュタイン的/相互行為分析的コミュニケーション観」に、最も大きなシンパシー(共感)を抱いています。

 関連性理論

 第10回で見たように、「関連性理論」は現在最も精緻な理論の一つですが、その回の最後に、私は再考の余地があるのではないかと述べました。その点について、私の考えを明らかにしましょう。
キーワードは「誤解」
情報意図を誤解する
この見方が正しいか否かを見極めるためには、謂わば「神の視点」に立たねばならない。

 コミュニケーション・モデル

オースティンの「言明」はあり得ない。
辞書の定義風に云えば、communication とは語源であるラテン語の communis (共有) がすでに教えるとおり、記号(言語・身振り・標識 etc.)やそれ以外の手段(絵画、音楽、芝居、映画、料理、モード etc.)を通じて、知識・感情・感覚・雰囲気 etc. が、発話者(発信者)と共発話者(共発信者)の間で「共有」されること、および、そのことにまつわる諸々の行為

 さいごに

そして、このことは、当然、「コミュニケーション」という言葉にも該当します。つまり「コミュニケーションとは何か」についての答は、あらかじめ決定されているのではなく、私が述べてきたことと、これを読まれたみなさんがたとの間に、そのつどそのつど生成され、変更され、消去されていくものなわけです。
(了)


【注】

【参考文献】
福島祥行 (2000): 《意味》の本質と生成過程――相互行為論の観点から――『人文論叢』大阪市立大学文学部: 19-36.

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