大阪市立大学インターネット講座2001

《意味》の生まれる場所
――言語理解システムの探究――



第12回



5. 相互行為論と言語の社会学

 言語学の一ジャンルに「社会言語学」という分野があります。文字通り、社会という観点から言語を研究するもので、「方言」「俗語」「若者言葉」「待遇表現」「言語の性差」「多言語話者の使い分け」といった研究対象が挙げられます。具体的には、たとえば、「政治家の演説に見る言語的特徴の研究」とか、「教室における教師発話の韻律的特徴」といったテーマが考えられますが、「異文化間コミュニケーション」の言語学的な研究も、この分野に入ります。
 一方、「若者言葉」や「待遇表現」「性差」「多言語話者の意識」など、言語を通して社会の構造を研究する学問は「言語社会学」であり、文字通り社会学の一分野です。「社会言語学」と「言語社会学」は、広義に用いられる場合、研究対象や方法論においてほとんど融合してしまうのですが、目標が「言語そのもの」か「社会の成り立ち方」かという点で、截然(せつぜん)と分かたれます。とは云え、相互に寄与し合う点は、やはり少なくありません。
 その言語社会学的視点から出発し、短期間で一大分野を形成した「エスノメソドロジー」(ethnomethodology)と呼ばれるものがあります。これは ethono (民族=人々の)と method (方法)からなる言葉で、エスノメソドロジーの創始者であるガーフィンケルの造語ですが(31)、ごく大雑把に云ってしまうと、人々が何らかの活動を行なう際に如何に振る舞うかを分析・考察する学問と云えます。
 このエスノメソドロジーへの着想を、ガーフィンケル(Harold GARFINKEL 1917-)は、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に着任した1954年から1959年の間に固めていきます。その後、UCLAで学んだシクレル、そしてシクレルが1965〜1966年に在任したカリフォルニア大学バークレー校に学んだサックスなどが続々と現れ、エスノメソドロジーを揺るぎない学問分野に育てます。
 ガーフィンケルは、エスノメソドロジーを、師匠であるパーソンズの「行為理論」と、シュッツの「現象学的社会学」の両者の影響の下に着想しました。このことは、エスノメソドロジーが、

(48)
  1. 人間の社会的活動は、無自覚のうちに規範によって制御されている。
  2. 社会の成員は、まったく同一の経験を持っていないにもかかわらず、相互主観的(32)に同じ世界を共有している。
という考え方を持つことを説明します。
 したがってガーフィンケルらは、「規範」は社会的(相互的)に構築され、更新されていく、固定的なものではないと考えました。そして、その規範は、社会のメンバーが何らかの振る舞いをするさいに、振る舞いを通して明らかにされると考えたのです。
 エスノメソドロジーの研究対象は甚だ多岐に渡っていますが、中でも一大潮流は、会話分析(analyse conversationnelle / conversation analysis)に大きな貢献を行ないました。まず、サックスは、次の例の一文ですら、その発話の背後に頗るたくさんの暗黙的知識が前提されていることを明らかにします。

(49) 赤ちゃんが泣いた。母さんが抱きあげた。

 サックスはこの文を分析して、(49)の第1文と第2文の間には、何の文法的繋がりも明示的に表わされていないにも拘らず、第1文が第2文の前に生起した出来事であること、「母さん」は「赤ちゃん」の母親だと理解してしまうことの不思議さを指摘します。そして、「赤ちゃん」と「母さん」という語が「家族」というカテゴリーに属していることをわれわれがあらかじめ知っているからだと述べます(34)。そこから「抱きあげ」られるのは「母親=大人」の方である、ということも理解されるというわけですが、サックスの重要な指摘は、この二文を聞いた人が如何に理解するかは「観察可能」な事柄であり、したがって社会的振る舞いは、社会のメンバーの誰にとっても「透明/アクセス可能/認識可能」なものだということです。何故ならば、サックスのこの考え方は、「コミュニケーションの可能性」を支持することになるからです。
 一方、ガーフィンケルは、日常的コミュニケーションの特質をはっきりさせるべく、学生たちに次のような課題を与えました。すなわち、(1)まず、日常的会話を記録せよ、(2)ついでその会話を、会話の参加者たちが理解した内容に書き直せ。学生の一人が示したのは、次のような結果でした(Garfinkel 1964: 37-38)。

(50) 夫:今日、ダナは抱き上げてやらなくてもパーキング・メーターにうまいこと一ペニー入れたよ。 私の四才になる息子のダナは、以前はいつもパーキング・メーターの高さまで抱き上げてやらねばならなかった。でも、私が彼を幼稚園から連れ帰った今日の午後、車を駐車場に留めた時には、息子はメーターの高さに十分手が届き、上手に一ペニーを投入することができた。
妻:あなた、あの子をレコード店に連れていったの? 息子がメーターに一ペニーを入れたのなら、あの子が一緒の時に、あなたは寄り道をしていたのだ。息子を連れに行く途中か、それともその帰り道のどちらかで、レコード店に立ち寄ったにちがいない。帰り道に寄ったのであの子はあなたと一緒だったのか? それとも、迎えに行く途中でレコード店に寄り、帰り道にはどこか別の所に寄ったのか?
夫:そうじゃないよ。靴の修理屋に寄ったんだ。 いいや。僕は息子を迎えに行く途中でレコード店に寄り、彼と一緒に家に帰る途中で靴の修理屋に立ち寄ったんだ。
妻:どうして? 私、靴の修理屋にあなたが立ち寄らねばならない理由を一つ知っている。でも、実際はなぜか?
夫:新しい靴ひもを何本か買ったんだ。 僕の茶色のオクスフォードの片方のひもが切れているのを知っているだろう。だから、何本か新しいひもを買うために寄ったんだ。
妻:あなたのローファーの運動靴、かかと新しくしなくちゃ。いたんでいるわよ。 私が考えていたのは、あなたの買った物とは別のことだ。いたんでいるから、かかとを直さねばならない黒のローファーをもって行くことができたのに。すぐにでもそれを直した方がいい。

 このことからガーフィンケルは、次の点が明らかになると指摘します。

(51)
  1. 話題になっていると知りながらも、会話の参加者の触れなかった数多くの事柄がある。
  2. 会話の参加者が理解していた事柄のうちの多くは、語られたことだけではなく、語られなかった事柄にも基づいている。
  3. 会話に現れる事柄の多くは、会話が現に展開されていることを示す資料として用いられている。
  4. 会話の參加者が共通に理解した事柄は、參加者が想定する「基本パターン」の事例として取り扱われ、且つ、それを通して初めて理解されたものである。
  5. 会話の参加者は、過去のデータを参照し、会話の未来を予測している。且つ、そのような方策を、相手も取っていると看做している。
  6. 会話の参加者は、話題を理解するために、次の発話を進んで待つ。
 ガーフィンケルは、「想定される基本パターン」が「予想を裏切られる場合」、すなわち「暗黙の了解」が不成立に終わった場合、コミュニケーションが如何に円滑に進まないかという実験も示しています。彼が学生たちに命じたのは、知人もしくは友人と日常的な会話を行ない、会話相手が用いた平凡な言葉の意味を明確にするよう、相手に云い張る、というものです(Garfinkel 1964: 44)。

(52) 犠牲者(被験者)が陽気に手を振った。
(被験者)どうだい?
(実験者)何がどうなんだい? 身体か、金か、勉強か、それとも気分のことか……?
(被験者)(真っ赤になり、急に自制を失い)そうかい! お愛想で言ったまでだ。本当のことを言えば、お前がどんなであろうとおれには全然関係ないよ。

 これらのことからガーフィンケルは、

(53) つまり、それぞれの出来事の規定は、それらに内在している諸関係や他の出来事との関係、あるいは過去把持的もしくは未来予示的な可能性との関係に対して開かれているというわけである。(3)表現を理解するためには、この表現が用いられた時、会話者たちは、それぞれ、相手の発言はもとより自らの発言をも聞きながら、会話のやりとりが行なわれているそのつどの時点で次のように仮定していなければならない。自分もしくは他者が次に何を語るのかを待つことにより、すでに語られたことの意味が明確にされるだろうと。
(Garfinkel 1964: 40)

という考察を導いています。これはひとまず、「会話裡の情報の不確定性」を指摘していると云えますが、この情報が、「永遠に不確定」であることも示していると云えます。
 たとえば(50)の例において、「パーキング・メーター」は、共発話者も「パーキング・メーター」で理解できるように分析されていますが、これを(53)の実験のように、「靴屋さんの近所にある、しかじかという形態で、高さXmのパーキング・メーターであるか」まで詳しく説明することも可能です。それどころか、その靴屋さんの近所ついて、しかじか形態について等の情報も、さらに詳述することも可能です。そして、その詳述中に現れた要素にかんしても亦(また)……。
 これは結局、発話者と共発話者の持つ「全知識」をすべて書き出すことに到ってしまうため、不可能になるわけですが、このことと、「表現の意味は開かれている」ことを考え合わせるならば、当然、次のような結論を導くことが可能となります。

(54)
  1. 会話の参加者は、言葉の意味の全てを理解した上で用いているのではない。
  2. 言葉の意味は、参加者を取り巻く諸状況によって規定される。
  3. 参加者が言葉の意味をどのように理解したかを厳密に記述することは不可能である。
  4. しかしながら、会話の参加者間においてコミュニケーションが成立している以上、何らかの共通理解は存在する。
  5. したがって、その共通理解は、参加者を取り巻く諸状況をリソース(資源)としつつ、その会話において「判りきったもの」として、会話の場を離れて追求する必要を認めないものである。

 つまり、(50)の「パーキング・メーター」は、百科辞典的に記述することや、会話の参加者の人生経験等に基づいて説明することも可能ではあるが、そのような「意味」はまさに「無意味」なものであり、当該の会話裡においてのみ「有意味」な「意味=理解」を持つということになります。その点において、(53)の「どうだい?」という「紋切り型の発話」と同じく、「会話の場を離れた定義の追求を拒否するもの」と云えるのです。そして、この「言葉の意味は、会話の場を離れては存在しない」という考え方が、前回述べたウィトゲンシュタインの考えと非常に近いことは、ただちにお判りでしょう。
 エスノメソドロジーでは、「会話分析」という言葉が「言語」に偏りすぎている印象を与えるためか、もっぱら「相互行為分析」(interaction analysis) という名称を用います。ウィトゲンシュタインを学んだエスノメソドロジスト西阪仰は、その著書において、「他人の心は透明である」と主張していますが、これは、「言葉の意味は常に観察可能である」ということであり、「言葉の意味は、常に相互行為的に、その場その場で定められる」というふうに敷衍できます。
 かくして、ようやくわれわれは、最終地点にたどり着きました。次回は、これまでの纏めを行ないたいと思います(35)


【注】
  1. 彼が如何にしてこの名称を思い付いたかにかんしては、ガーフィンケル「エスノメソドロジー命名の由来」(GARFINKEL & alii 1967: 11-18)参照。
  2. intersubjective(【仏】intersubjectif)、「間主観的」とも訳される。ア・プリオリに存在する「客観」ではなく、その場への参与者(参加者)の視点・解釈(=主観)をコミュニケーションを通じて摺り合わせることで得られた「共通の主観」の謂。
  3. 教育社会学者の阿部耕也氏の訳。
  4. サックスはこの仕組みを「成員カテゴリー化装置」(membership categorization device)と呼んだ(cf. Sacks 1972)。
  5. 会話の順番取り=話者交替」(turn-taking) の規則など、エスノメソドロジーが日常会話研究に寄与した分析は数多いが、詳細はそれぞれの文献に譲る。

【参考文献】
西阪  仰 (1997) 『相互行為分析という視点――文化と心の社会学的記述』認識と文化13,金子書房.
西阪  仰 (2001) 『心と行為――エスノメソドロジーの視点』岩波書店.
COULON, Alain (1996) 『入門エスノメソドロジー』(L'Ethnométhodologie)[山田富秋・水川喜文]せりか書房,1996.
GARFINKEL, Harold (1964): 日常活動の基盤『日常性の解剖学――知と会話』[北澤裕・西阪仰 編]マルジュ社,1995: 31-92.
GARFINKEL, Harold & alii (1967) 『エスノメソドロジー――社会学的思考の解体』[山田富秋・好井裕明・山崎敬一 編]せりか書房.1987
SACKS, Harvey (1972a): 会話データの利用法『日常性の解剖学――知と会話』[北澤裕・西阪仰 編]マルジュ社,1995: 93-173.
SACKS, Harvey (1972b): On the analyzability of stories by children, in J. J. Gumperz and D. Hymes (eds.), Directions in Sociolinguistics, Holt, Rinehart and Winston: 325-45.

[前へ][目次][次へ]