《意味》の生まれる場所
――言語理解システムの探究――
第9回
4. コミュニケーションの哲学(I)――「言語行為論」――
グライスはオックスフォード大学に学んだ言語哲学者でしたが、そもそもオックスフォードは「日常言語」を哲学する哲学者たち、いわゆる「日常言語学派」(Ordinary Language School)の牙城でした。コミュニケーションの問題を深く考えるために、これから三回に渡り、この言語哲学の流れを追うことにします。
哲学とは、真とは何か、善とは何か、美とは何かなどについて、「言葉」を用いて考察してきました。当然、そこには「言葉の伝えるものは誰にも分明である」ということが前提されています。しかしながら、われわれが普段用いている「日常言語」――今日では「自然言語」と云う方が普通ですが――は、しばしば、と云うか頻繁に、誤解の種を播き散らします。そのため、「日常言語」を哲学の考察には不向きだと考えた人々、たとえば論理実証主義者(14)は、解釈にも誤解の余地の這入り込み得ないような人工的な発話形式を採用しました。ですが、このような謂わば「哲学的言語」に飽きたらぬ人々は、全く逆のアプローチ、すなわち「日常言語」こそ考察の対象であるという研究態度を取ることになります。その一人がオックスフォードの哲学者オースティン(John Langshaw Austin 1911-1960)でした。
オースティンの著書として最も有名なのが、日常言語を正面から取り上げた『言語と行為』です(15)。この本は、原題 " How to Do Things with Words "(ことばを用いて如何にコトをなすか)が示すように、「人間はことばを発することで、何かを行なっている」ことにかんして考察したものです。たとえば、次のような発話があるとします。
(18)
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- 長崎は今日も雨だ。
- 明日は行くと約束するよ。
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オースティンは、このような発話を分析して、次の点に着目しました。すなわち、(18a)は「単に現象を記述した文」ですが、(18b)は「約束するという行為を伴った文」だという点です。そして、前者を「事実確認的」(constative)、後者を「遂行的」(performative)と呼びました。つまり、この「遂行的発話」こそ「云うこと=すること」(16)の現れなわけです。このような「遂行的発話」について、オースティンは、
(19)
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- その発話はいかなるものをも「記述」「報告」せず、さらにまた「事実確認」もせず、しかも、「真か偽か」でもなく、
- その文を述べることが行為の遂行そのものであるか、その遂行の一部をなすかであり、かつ、この行為を、何かを云うことであるとして描写することは、正常な場合にはあり得ない。
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と定義し(Austin 1960:10 一部訳語を改めた)、次のような例を挙げています。
(20)
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- (結婚式において、彼女を妻とするか、と問われて)そうします(I do.)。
- (進水式において)この船を「エリザベス号」と命名する(I name...)。
- (遺言状において)私の時計を弟に遺産として与える(I give and bequeath...)。
- 明日、雨が降る方に6ペンスを賭ける(I bet...)。
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しかしながら、少し考えてみれば判るように、現実の発話には、「事実確認的」か「遂行的」か、截然と分かち得ないものも沢山あります。たとえば、次のような発話はどうでしょう。
(21)
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- 私はそれは行司差し違いだと思う。
- 私はそれは行司差し違いだと判定する。
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上の発話のうち、(21b)は「判定」という行為を伴っており、しかも「判定している様」を記述しているわけでもありませんから、遂行的発話だと云えますが、(21a)は一見「判定」同様の遂行的発話のようですが、「私が思っている様」を記述している事実確認的発話とも取れ、曖昧です。さらに、(21b)についても、「私」が「審判員に向かって異議を唱える一観客」であったらどうでしょう。いくら「判定する」と発話しても、その「判定」は有効とは考えられず、判定が「遂行」されていない以上、これは遂行的発話ではないことになります。要するに、「事実確認的」か「遂行的」かは、意味や語彙に還元できない「発話の解釈」によるというわけです。
そこでオースティンは、観点を改めて、「何かを云うことが何かを行なうこと」「何かを云いつつ何かを行なうこと」「何かを云うことによって何かを行なうこと」という分類を提案します。彼の挙げた例は(22)のようなものでした。
(22)
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- 彼は私に「彼女を撃て」と云う。
- 彼は私に彼女を撃つよう命じている。
- a. 彼は私に彼女を撃つよう説得した。
b. 彼は私に彼女を撃たせた。
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そして(22)を、それぞれ(23)のように名付けました。
(23)
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- 発語行為 (locutionary act)(17)
- 発語内行為 (illocutionary act)(18)
- 発語媒介行為 (perlocutionary act)
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つまり、「発語行為=文字通りの意味を伝える行為」「発語内行為=発話の解釈を伝える行為」「発語媒介行為=発話の結果得られた行為」というわけです(19)。そして、このことを推し進めると、「陳述文」にも「陳述」という発語内行為が発生しますので、結局、如何なる発話も遂行的なものとなり、(18)における事実確認的/遂行的という相違は存在しないということになります。
かくしてわれわれは、「この部屋寒いと思ったら、窓が開いてるねえ」という発話が「聞き手が部屋の窓を閉める」という行為を惹き起こす経緯を分析することが可能となりました。オースティンはさらに、発語内行為は「慣習的」(conventional)であるのに対し、発語媒介行為は「非慣習的」(non-conventional)だとします。発語内行為、すなわち発話の解釈は、話し手−聞き手間ではいつでもどこでも一定の解釈になるのにたいして、発語媒介行為の方は、その場その場で異なり得るからです。
さて、オースティンの考えを受け継ぎ、さらに精緻化したのが、オックスフォードに学んだサール(John R. Searle 1932-)です。アメリカ生まれで、現在はカリフォルニア大学バークレー校の教員であるサールは、「慣習的」という点について考察を深めました。その結果彼は、「慣習的」を「規則に従う」ことと捉え、発語内行為が意味を持つための「規則」(rule)を分類するに到ります。このためにサールは、まず、発語内行為が成立するための条件を考察し、次いで、そこから規則を導き出しています。たとえば「約束を行なう」という発語内行為が成り立つための条件にサールが挙げている条件を、思い切って簡単に言い換えると、次のようになります。
(24)
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- 話し手と聞き手は、ちゃんと会話が成り立つ状態にある。(正常入出力条件 normal input and output condition)
- 話し手は、その発話において、ある内容を表現している。(命題内容条件 propositional content condition)
- 話し手は、その内容によって自らの未来の行為について述べている。(命題内容条件 propositional content condition)
- 話し手は、聞き手が約束内容を行使されぬより、される方を好むと信じている。(事前条件 preparatory condition)
- 話し手がそれをなすことは、話し手にも聞き手にも自明ではない。(事前条件 preparatory condition)
- 話し手は、約束を守ろうとしている。(誠実性条件 sincerity condition)
- 話し手は、その発話によって、約束履行の義務を負おうとしている。(本質性条件 essential condition)
- 話し手は、その発話を聞き手が理解し、そのことによって、約束履行の義務を負うことを意図している。
- 話し手と聞き手が用いることばは、その発話が正しく誠実に発話されるときにのみ意味を持つ。
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そしてサールは、この諸条件から、「約束」という発語内行為を成立させるための規則群を導き出します。これも大胆に簡略化すると、次のようになるでしょう。
(25)
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- 「約束」の力は、話し手の未来の行為が述べられている文の文脈の中でのみ発揮されるべきである。(命題内容規則 propositional content rule)
- 「約束」の力は、聞き手が約束の行為をなす方を好み、かつ、話し手もそう信じている場合にのみ発揮される。(事前規則 preparatory rule)
- 「約束」の力は、話し手が約束の行為をなすことが、話し手にも聞き手にも自明ではない場合にのみ発揮される。(事前規則 preparatory rule)
- 「約束」の力は、話し手が約束の行為をなそうとしている場合にのみ発揮される。(誠実性規則 sincerity rule)
- 「約束」の力を発揮することは、約束の行為をなす義務を負うと看做される。(本質的規則 essential rule)
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サールはこの規則を用いて、「依頼」「陳述」「質問」「感謝」などの発語内行為を分析しています。
このように、オースティンによって考え出されたコミュニケーション理論は、サールによって陶冶され(20)、現在に引き継がれました。この「言語行為論」(Speech Acts Theory)は、言語学における「語用論」(pragmatique/pragmatics)の分野で大きな貢献を果たすことになりました。かくして「オックスフォード派」の流れは、このオースティン−サールの流れと、前回に述べたグライス(Paul Grice 1913-1988)の流れを持つわけですが、この両派を踏まえ、かつグライスの着目を評価しつつ、さらに精緻な研究を行なったのが、やはりオックスフォードに学んだスペルベルとウイルソンの「関連性理論」なのです。
【注】
彼らは、真に哲学的問題となるためには、有意味な命題、すなわち「論理的に解決できる」か「経験的に正しさが検証できる」問題でなければでなければならないと考えた。この考え方からすると、「全称命題」、たとえば「全ての烏は黒い」は検証不可能なので無意味な命題となる。また、「道徳的命題」、たとえば「人を殺してはならない」も、殺人を禁止する「命令」であったり、殺人に対する「嫌悪の表明」ではあっても、真か偽かを問える命題ではなくなってしまう。
オースティンは、その長くはない生涯中に自著を刊行していない。この本も、没後、彼の講義ノートをもとに、アームソン(J.O. Urmson)が編集・出版したものである。その講義は、1955年、アメリカのハーヴァード大学において「ウィリアム・ジェームズ記念講義」として行なわれたものであるが、オースティンはすでに同様の内容をオックスフォードで行なっており、さらに彼自身のメモによれば、構想自体は1939年に形をなしていたらしい。
How to Do Things with Words の仏訳タイトルは Quand dire, c'est faire (云えば、する)である。
オースティンは、発語行為をさらに「音声行為(phonetic act)=文を発音する行為」「用語行為(phatic act)=語の形を文法に則って発話する行為」「意味行為(rhetic act)=各用語を意味と指示対象を明確にしつつ使用する行為」の三つに下位区分している。
┌音声行為
┌発語行為┼用語行為
│ └意味行為
└発語内行為
"illocutionary" の il- は、勿論 in (内)の方の接頭辞。オースティンの造語。
オースティンは、(22Ca)のみを本質的な「発語媒介行為」としている。
サールは、オースティンにおける「意味行為」を「命題行為」(propositional act)としてレベルを上げることで、上に見たオースティンの「発語行為/発語内行為」という図式を変更したと云える。すなわち、
┌音声行為
├用語行為
├命題行為
└発語内行為
【参考文献】
AUSTIN, John Langshaw (1960)『言語と行為』(How to Do Things with Words)[坂本百大]大修館書店,1978.
SEARLE, John (1969)『言語行為』(Speech Acts : An Essay in the Philosophy of Language[坂本百大・土屋 俊]勁草書房,1986
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