《意味》の生まれる場所
――言語理解システムの探究――
第8回
云うまでもなく、われわれは、「相手に判るように発話する」ことを目指します。あるいは、「相手が判るように発話してくれる」と期待します。這般の消息をグライスは、「協調の原理」(Cooperative Principle)と呼び、その下に、18世紀の大哲学者・カントに倣って四つのカテゴリーに属する「公理」(maxim/maxime)(11)を置きました。四つのカテゴリーとは「量」(quantity/quantité)「質」(quality/qualité)「関係」(relevance/pertinence)「様態」(manner/manière)です。そして彼は、その下に、いくつかの公理を設定しました。グライスの公理とは次のようなものです(Grice 1989: 37-39)。
(15)
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- 量のカテゴリー
- 要求に見合うだけの情報を与えなさい
- 要求されている以上の情報を与えてはならない
- 質のカテゴリー
- 偽だと思うことを云ってはならない
- 充分な証拠のないことを云ってはならない
- 関連のカテゴリー
関連性のあることを云え
- 様態のカテゴリー
- 曖昧な云い方をしてはならない
- 多義的な云い方をしてはならない
- 余計な言葉を用いず、簡潔な云い方をせよ
- 整然とした云い方をせよ
etc.
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これは要するに、
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- 必要な情報は提供し、必要以上の情報は提供しない
- 真実でないと思う情報は提供しない
- 話題に無関係な情報は提供しない
- 明晰な仕方で情報を提供する
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と纏められます。たとえば、
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- A: どうしたんだい?
B: 紙
- A: 長崎名物「ちりとてちん」って、知ってるか?
B: そりゃもちろん、長崎で朝、昼、晩と食べてましたがな
- A: 最近、運動してるかい?
B: 劉備の気分だね
- A: 芝居って、どんな風な?
B: いや、もう、アレがアレで、そんな感じやね
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の(17a)〜(17d)におけるBの発話は、それぞれ(16a)〜(16d)の「公理」に反していると指摘できます。
この観点から先の(12b)や(13)を見直してみると、(12b)は「関連性カテゴリーの公理」に、(13)は「関連性カテゴリーの公理」と「量カテゴリーの公理」に反していると云えるでしょう。これらの発話が「周辺的」と感じられた理由は、ここにあったわけです。
ですが、(17c)におけるBの発話が「馬に乗れずに付いてしまった内股の肉、すなわち髀肉(ひにく)を嘆いた三国志の劉備の故事」(12)を踏まえているとするならば、この発話は「髀肉を嘆じた劉備の如く、運動不足を嘆きたい気分だ」という「意味」になり、「関連性カテゴリーの公理」に違反していないことになります。
もちろん、これは「劉備の気分だね」という発話から「明示的」(explicit/explicite)に得られる「意味」ではないでしょう。グライスは、このような「含意的」(implicit/implicite)意味は、発話者と共発話者(13)が共に「協調の原則」を遵守していると推定されるときに生ずるとしています。要するに、「無意味な発話は行なわない」という前提があるとき、発話された側は、それがどんなに原則に違反しているように見える発話であっても、原則に違反しないように(=話が繋がるように)解釈する、すなわち「含意的意味」を引き出そうとする、というわけです。かくして、発話者の「伝えたいこと」は、共発話者の「理解への努力」によって「伝わる」のでした。
さて、「発話」には「明示的・言内の意味」と「含意的・言外の意味」の二つがあることが明らかになりました。たしかに、「劉備の気分」をそのままの姿、すなわち「文字面」のみで解釈するならば、「劉備の気分」以外に「意味」は存在しません。「文字面」以外の「意味」を求めても、精々「3世紀中国・三国時代、蜀の国を建てた武将の気分」程度のものでしょう。しかし、発話は常に「発話の場」と結び付いています。そんな中で、(17c)におけるように、発話者の「伝えたいもの」は、「文字通りの意味」ではないことも少なからずあります。そんな場合、共発話者は、発話者の発話の「言外の意味」を、どのようにして引き出しているのでしょうか。一旦は「言内の意味」にアクセスし、そこから「これはおかしい、別の意味があるに違いない」と判断して、「言外の意味」に到達しているのでしょうか。
この辺りのことは考えていただいておくとして、言葉の「意味」と「使用」の問題をグライス以前に追求した、代表的言語哲学者たちの考えを見てみたいと思います。
【注】
maxim とは「行動の指針となる原則」のことであるが、哲学用語では一般に「格率」と訳される。
ただし、「髀肉の嘆」という言葉は、この故事から転じて、力を発揮する機会に恵まれないことを嘆く意味。
【仏】co-énonciateur。発話の場において、発話者(énonciateur)と共に発話を作り上げる参与者。すなわち「聞き手」
【参考文献】
GRICE, Paul (1989)『論理と会話』(Studies in the Way of Words)[清塚邦彦]勁草書房,1998.
小田三千子 (1994)「ことばの含み」『異文化理解とコミュニケーション』1,三修社.
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